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コラム18: 見えない場面こそ試される「道徳」

金や時間を掛けずとも多大なメリットを簡単に得られる行動を蔑ろにすることは、特に賢くない行動やふるまいだ。「挨拶をしない」「乱暴な言葉遣いをする」「不機嫌を他者にぶつける」などは、ほんの少しの配慮で改善できるにも関わらず、社会的に重大なデメリットを生む行為だ。

一方で「礼を尽くす」「言葉を丁寧に選ぶ」「自己機嫌を整える」といった振る舞いは、大きな金銭や時間をかけずとも、社会的な信頼と信用を積み上げるための基礎となる。


社会的信用は価値観と行動の積み重ね

多くの場合、社会的信用について考えると、地位や名誉、財産など、外面的な要素にばかり焦点が当てられる。しかし、実際には、その人の振る舞いや価値観が第一の基盤であり、それは外面的なものに依存しない内面的な道徳的基準によって支えられるべきだ。この道徳的基準は「世間の目」に従うものではなく、個人が経験や学びを通じて形成した信念に基づくものでなければならない。

「世間の目」を気にする態度は、日本人の文化的背景の中で長く根付いてきた。しかし、単に人の目を意識して行動することは、根本的な価値観や倫理観が育まれているとは言えない。たとえば、見えない場所でゴミをこっそり捨てる行為は、まさに「世間の目」に依存している行動の典型だ。誰も見ていなければ、自分の行動を律する基準が失われてしまう。しかし、正しい価値観や道徳を内面に持つ人なら、誰が見ていようと見ていまいと、自らの行動に一貫した基準を持つはずだ。

「人の目」から「自分の目」へ

道徳的な判断基準が「誰かが見ているから」という理由だけで行われる場合、そこには真の思考や価値観は存在しない。「誰かが見ているかもしれないから止めよう」といった判断は、表面的には思慮深く見えるかもしれないが、実は思考停止に近い状態だ。自分の行動が正しいかどうかを考えずに、人の目を気にして行動を決定する人は、他者の基準に頼りすぎ、自己の判断力を養う機会を逃しているとも言える。

確かに、正しいと分かっていても、「怖い」「面倒だ」と感じることはあるだろう。しかし、そうした場面でこそ、道徳的な基盤が試される。勇気を持ち、面倒に思わずに正しい行動を取ることが、成熟した大人としてのあり方だ。そしてそれが、社会的信頼を築く上で、最も大切な態度でもある。


道徳的な基準は、単なる他者への迎合ではなく、内面的な成長と自己理解の積み重ねによって形成されるものである。誰も見ていない場面でこそ試される、自分自身の道徳的な行動基準が、真の賢さといえるだろう。正しい振る舞いを論理的に考え、行動に移すための道徳規範を持つことは、個人の品格と信頼を高め、社会に貢献する礎を築くものである。

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