「若手教師が陥りやすい」道徳科授業の落とし穴
・ 教材だけに目が行く
本時の授業で扱う教材文だけに目を奪われ、学習指導要領に示されている内容項目を読まないで授業に向かおうとするパターンです、本時の授業の基盤となるねらいを明確にするためには、学習指導要領解説編に示された内容項目を確認していくことは、授業を構想するためのスタートラインだと考えます。
・ 指導案を軽視しがち
指導案は、教材研究のあゆみそのものです。「教材」、「児童・生徒」、「教師」の3つの関わりで授業は構想されますが、教師が教材をどう価値づけ、児童・生徒の実態からどのような課題を設定し、どう機能的に授業を構成するかを明確にして授業に臨みたいものです。そして、これらを表現したものが学習指導案だといえるでしょう。授業における羅針盤の役割を果たす指導案を書くことは、授業という教育活動をマネジメントする教師の力量の向上に寄与することは間違いありません。「指導案が無くても授業はできる」という教員には2タイプあると考えます。指導案を徹底的に書く経験を経て、指導案が必要ないほどに機能的な授業が構想できるようになった人か、指導案に表現できるほどのレベルに達していない授業しかできない人かのいずれかだと思います。(多くは後者なのですが……)
・ 発問が多い
若いころ、「授業で教師であるアンタがしゃべりすぎだ」と幾度となく指導を受けた経験があります。教師の発問に対して、子どもたちから的確な反応が得られず、焦って追加の補助発問を乱発し、最後は自分の考えを伝えるだけという悪循環に陥った授業が多かったのでしょう。発問が多いのは、その発問が機能しないからであり、発問自体が的確性に欠けるからです。スモールステップで発問を重ねていく授業は、どうしても「教師対子ども」の授業になりがちで、「教授者⇔学習者」の固定化された関係性のなかだけで進むことになります。低学年の授業では、意図的にそういった展開を仕組むこともありますが、中心となる問いをベースにしてなるべく発問は精選したいと考えます。
・ 設定した発問や指導過程へのこだわりが過ぎる
教材研究を深め、児童・生徒の実態もふまえて学習を構想したとき、その準備が念入りに行われたものであればあるほど、教師のこだわりが強くなります。「この授業で必ずここまで考えさせる。そのための教材や活動も準備した」となると、教師自身が授業として描いたストーリーの上に子どもたちを乗せることに執着してしまいがちです。しかし私自身の経験から言えば、少なくとも道徳科では、そういった授業でうまくいったためしがありません。それは、教師が描いた授業像に自縄自縛の状態に陥り、子どもたちの声に耳を傾けられなくなっていくからだと考えます。子どもたちとともにひとつのテーマを追求し、互いの考えを「紡ぐ」営みを道徳科の学習の基盤とするならば、「準備は精緻に、授業はおおらかに」という教師の構えが肝要でしょう。
・ 羅列的な板書になる
道徳科の授業における板書は、子どもの発言を一言一句全て書き上げる必要はありません。板書は、子どもたちの思考をうながしたり、自分の考えの現在地を確認したりするための学習ツールのひとつとして機能させることが重要だと考えます。ですから、子どもたちの発言や考えのキーワードを端的に書き記し、ポイントをわかりやすくまとめることが効果的なのではないでしょうか。