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石の時間について考える

「石ってものすごく壮大な年月をかけてできたもので、もう石そのものの存在がかっこいいじゃん、だから俺なんてかなわないと思っちゃって、石を彫ろうとは思えないんだよね。」

と、そんなことをある人に言われたことがある。
その人に限らず、このような意見はよく聞くし、なんならわたしもそう思う。わたしなんかが彫ったものより、石そのものの方がよっぽどかっこいいじゃん、と。

わたしも、かなわないと思う。石そのものには。

そう思いつつ、石を彫っている。
だけど石そのものよりカッコいい作品を作ってやるぞ!とか、石そのものに対して「勝ってやろう」みたいな気持ちはまったくない。

わたしが手をかけた方がカッコよくなるなんてことは、あり得ない。

じゃあなぜ石を彫るのか。
わたしは「なんのために」作品を作るのか。

カッコいいものを作るためでも、誰かのためでも、社会のためでも、何でもない。美しいものを作ろう、とすらあんまり思ったことがない。
わたしはただただ、自分のためだけに、作品を作っている。


…………………


石と向き合っている時間が、ただ自分にとって大切だから石を彫っているような気がする。

そんなことを思ったのは、今日久しぶりに自分の石を見てきたから。

家に篭りきりこの一ヶ月、石を彫りたいとも何か創作したいとも、まったく思えないまま、そこそこ暗い気持ちの日々をしかし健康に過ごしていた。

この数ヶ月ですっかり世界は変わってしまった、そんな風に思っていた。コロナ前には戻れない、と人々は言う。わたしもそう思う。だけどコロナ後の世界について考えるほどの元気もないまま、ダラダラと自粛期間を過ごしていた。

仕事の用事があって、久しぶりに大学に行った。
草木は誰にも刈られないのをいいことに、好き放題伸びていた。こりゃ再開してから草刈りが骨だぞ、と思いながら裏のさしかけに周ると、何も変わらない姿形で石がそこにあった。

当たり前に何も変わらず平然とそこにある石。コロナ前もコロナ後も、どんなに人の世の中が変わろうと、例えこの状態があと何年も続いても、もしこのまま人類が滅んだとしても、やっぱり何も変わらず、ただそこにあるであろう石。
わたしたちの時間とはあまりに違う時間の中にいる石を見て、この数ヶ月ずっとざわざわしていた気持ちが、すっと静かになるのを感じた。

うまく言えない、うまく言葉にするのは難しいけれど、石に向かい合い、触れているとき、わたしは石の時間に触れているのだ、と思う。


…………………


もし、石に言語があったらそこには「時制」が存在しないのではないか、とふとそんなことを「メッセージ」という映画を思い出しながら考える。

以下映画の重大なネタバレをしてしまうので気をつけてほしい。

メッセージは地球外生命体に対して言語学者が対話を試みる話だ。地球外生命体である彼らは、図形でもって言語を表すのだが、それを解析していくうちに、彼らの言語には「時制」がないということがわかる。
彼らの中には、過去・現在・未来という時の概念がなく、それらは同時に存在しているのだ。

言語学者である主人公は、そんな彼らの言語を学び触れていくたび、自分も彼らの概念を獲得していくことになる。過去・現在・未来が同時に起こっていくのだ。

経年によって(外側の汚れ等はあるものの)形をほとんど変えることのない石を見ながらふと、石の中にある時間の概念とは、そのようなものではないだろうか、と思ったのだ。

石はわたしたちの想像を絶する過去を内包している。石ができてここに至るまで、そこには人間のそれとは比べ物にならない時間のスケールが存在している。人類が生まれる前から彼らはすでに石であっただろう。

そして、人類が滅んだとしても、石は石であり続ける。

滅多なことがないかぎり、ほとんど形を変えずにそのまま。
わたしは何千年、何万年と前に存在していた石と、現在わたしの目の前にある石と、そしてもっとうんと先の未来にある石とを想像して、石の内包する時間について考えた。そして、石には過去も現在も未来も同時に存在しているのではないかという気がしたのだ。

常に変化を続けることで存在を維持する動植物には結局、現在しかない。過去も未来ももちろん内包していると言えるのかもしれないが、1秒前と1秒後のわたしは違う。変化を続けることで、「現在」を重ねることで過去ができ、過去と現在をつないだ線の先に未来を想像する。変化が止まるとき、それは時の終わりをー死を意味する。
だけど石はそうじゃない。不変のまま、そこにあるのだ。

もちろん石の成り立ちについて考えれば、そこには変化はあった。だけど、その変化が"止まった"時、石は石になる。
石を彫っていると、たまに貝殻なんかの化石が入っている。石になる前は、生物だったものだ。わたしたちと同じ時間の概念の中で生きていたものだ。それが今は石の時間の中に取り込まれている。

私たちの時間の概念から言えば、石は「死んで」いるのかもしれない。石になる条件が「変化が止まる」ことであるならば、それは死の塊と言えるのかもしれない。
でも、どうも、石が死んでいるという表現はわたしにはしっくりこない。生きているという表現もしっくりこない。

ただただ、わたしたちとは違う時間の概念の中に在る、と言う方がわたしにはしっくりくるのだ。

メッセージの主人公の言語学者のことを考える。彼女は、世界がその生命体に敵意を向ける中で、彼らは敵じゃないと最後まで対話を試みるのだが、彼女の中にあったのは世界を救いたいとかそんなことよりも、その概念に触れたい、知りたい、という学者としての知的好奇心であったように感じる。そして彼らと対話することで、自分の知らない自分自身の真実と向き合えるということが、彼女にとって一番大切だったのではないかと思える。(実際、世界を救うという意味での描写はかなり雑)

石に触れるとき、わたしはそんな石の時間に触れていたのかもしれない。

わたしはちょっとしばらくぶりだね、と思って石に対面したが、そんな時間の概念は向こうにはないだろうな、と思ったのだ。それは単純にスケールの違いではなく、一ヶ月前も、今も、石は同時にここに存在していたと、そんな気がしたのだ。


…………………


わたしは石の時間の概念を獲得することはできないだろう、あの貝殻のように、死んで自身が石に取り込まれでもしない限り。わたしは大人しく人間の時間のスケールの中で生きていくだろう。けど、石に触れるとき、石の持つその時間に触れることができる気がする。
目まぐるしく変わっていく世の中で、そんな時間はすこしわたしを落ち着かせる。

そしてそんな時、やっとわたしは自分自身とも向き合えるようになるのだろう。

そのためにわたしは、石との対話を試みるのだろう。

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諸岡亜侑未
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