
全く甘酸っぱくない青春の思い出
思い出話の始まり始まり
今は”アオハル”っていうんですか?青春のことを。まあ、こんな私にも一応ありましたね、そんな時代が。中島みゆきではありませんが…。
ところで、私のフォロワーさんが「掃除に救われた」的な面白いエッセーを書いてみえたので、私も一本、年始の暇をつぶすために掃除にまつわる話を書いてみようと思います。誰がシオレタおっさんの思い出話なんて読んでくれるんだろう、と思いながら…。
思えばこれが人生劇場の始まり?
中学の話ですので、もう40年以上前の話です。私の中学では入学した以上、何かの部活に入るのがルールでした。体を動かすのが生来嫌いな私は、ひたすら暇そうな部活を探しました。そうして見つけたのが「印刷部」です。いわゆる「活版印刷」ですね。誰もが習いましたよねグーテンベルクの世界です。一つ一つ鉛の活字を探し出し並べて印刷する。以前、「タモリ俱楽部」で名刺を活版印刷で作るというニッチなことをやってましたね。さすがタモリ倶楽部。今では印刷もすっかりオフセットが主流になり、活版は伝統芸能みたいになりました。でもレコードと同じで、活字に温かみを感じる人たちによって、細々と支えられているようですね。
今思えば、その後私は印刷屋に就職する(今は別の仕事してます)ので、何か運命の赤い糸で結ばれていたのかも知れませんね。といっても、余りに暇だったので、さすがに他に何かしようと思い立ちすぐに退部してしまいました。たまたまクラスメイトが所属していたハンドボール部に空きがあったので、紹介されるままよくリサーチすることなく入部してしまいました。これがまたとんでもなく厳しい。顧問をしていたのは、英語を担当していたS先生でした。彼は何でも鬼のS先生と恐れられていたのでした…。
ああ、ハンドボール部
ハンドボールなんて、それまでの人生で全くアウトオブ眼中です。サッカーや野球ならそれなりに知識がありましたが、ハンドボールって何?でしたね。簡単に言うと、ボールを回しながら相手ゴールに向かって、手にしたボールをシュートする。(専門の方、これで合ってますかね?)というスポーツですね。とにかく小さなコートの中を激しく動き回り、戦略的にボールを支配する。そんな頭も体力も使う部活だとは梅雨知らず。完全にハズレを引いたなと思いましたが後の祭りです。その日から徹底的な走り込み、腕立て伏せ、恥ずかしい声出し…。ああ、もう私の青春を返して状態でしたね。ただでさえ、うちの中学は進学校で名を馳せ、勉強に追われる毎日。ちなみに私は、いつも成績が地を這っていましたけどね。なのに放課後は厳しい練習が待っている。顧問のS先生も厳しく、よくビンタされました。まあ、ビンタで済めば良い方で、殴る蹴る、今じゃあ信じられない教えを体験していました。団塊ジュニアを親に持つ皆さん。皆さんの両親にはこういうドラスティックな青春時代を送った方が少なからずおられます。皆さんは恵まれているんですよ。
こんな激しい日々を送っておりましたので、生まれてこの方生臭な私は、ある日から部活へ行くことをサボるようになりました。
こんな噂を聞きました。
「部活を辞めると、内申書に悪く書かれて高校へ行けなくなる」
うちの中学は進学校でしたから、ありそうな話です。それを憂えたうちの親が、
「高校へ入れんとあかんで、部活辞めたらアカンよ。人生なんでも辛抱だで、我慢して行きゃあ」
まあ、苦労して私を育ててくれた母親の言うことですので、私はしぶしぶ部活へ復帰?することにしました。しかし、世の中そう甘くはありません。
干される毎日
干される。そういう辛さを私は既に中学時代に体験しています。来る日も来る日も私はクラスメイト(彼も私と一緒に逃亡していた口です)と一緒に、壁にへばりついた形で立たされていました。何も出来ません。やらせてもらえません。ただ、部活が終わるまでずっと立っているのです。エグいですよね。中学生相手に。しかし、あの当時はそれが当たり前の風景でした。相変わらずコートに入ることは叶いません。そのうち私は彼に提案しました。
「どうせ立ってるだけなんだから、部室の掃除でもしよまい」と。
次の日から、私たちは二人で一生懸命に部室の掃除をやりました。それから何日か経過したある日、顧問のS先生に呼ばれました。
「お前らな、選手としては失格だが、今日からうちのマネージャーやれ」と。
「・・・?」
「なんじゃそりゃ。マネージャーだって、なにそれ?野球部やサッカー部にしかないじゃん。選手としてはダメって、失格の烙印じゃないの?」
と二人とも顔を見合わせてキョトンとしていましたが、先生は続けます。
「あのな、部活ってのは選手だけで成り立つもんじゃないんだわ。選手を支える人間もいないとダメだ。お前らは選手として使えんが、サポート役としては向いているぞ。だからマネージャーをやれ」と。
は~ん、そういうことか。私たちは安堵しました。ひょっとすると、マネージャーをちゃんとやったら、内申書にベターなことを書いてくれるかもしれないと皮算用を始めました。その日から私たちは、せっせとマネージャー業務にいそしみました。人間という生き物は、実に現金なものです。若いだけに、その欲望に愚直だったんですね。
誰かを「支える」ということ
その日から、私たちは全力で選手をサポートしました。ボール拾いはもちろん。練習前にゴールネットを張ること、ボール磨き。コート内に大きな石が無いか確認すること。対外試合ではスコアを付けることも大切な仕事でした。初めはヨソヨソしかった選手たちとの関係も、
「お前たちがいないともう部活がやっていけんなあ」
などと先輩からもお褒めの言葉を賜るようになりました。実はある先輩からこの時頂いたあだ名が、いまだに私の呼称(高校の友人まで)となっています。その先輩は男の私から見てもかなりのイケメンでしたし、頭も良い。優しい先輩でした。先輩から頂戴したあだ名は、いまでも私にとって大切なパートナーです。あだ名について世間ではあれこれネガティブな意見がありますが、少なくとも私にとっては、このあだ名のお陰で助けられたことがたくさんあります。先輩、本当にありがとうございます。
私がその後の人生で、営業などの表に立つ仕事よりも、裏方として誰かをバックアップすることに向いていると思ったのは、その時ですね。人には向き不向きがあります。向いていないことで評価されないのは当たり前です。人生の色んな場面の中で、自分の立ち位置を考えてみることは大切なことだと思います。
後日談
まあ、そんなこんなで私は無事?中学を卒業し、「絶対に入れない」と誰にも思われていた県立高校に合格し、短い我が世の春を送ることになります。面接の時に、私はハンドボール部でのことを”盛に盛って”話しました。思えばそれが幸いしたのかも知れません。有難うハンドボール部。しかし、バラ色に染まるかと思っていた私の高校時代は、その後の人生において暗黒時代と言わざるを得ない最悪なものでした。それについてはまた、機会があればお話しします。
私の弟も、当然同じ中学に入ります。やはり部活へ入るわけですが、なぜかハンドボール部を選びました。顧問の教師は弟の顔を見るなり、
「ああ、アイツの弟か。ならマネージャーね」
ということで、即マネージャー業をやることになったとか。なんでも私のことは中学でもある種の武勇伝になっていたそうです。私たちが卒業した後も、マネージャー制が敷かれ、私の弟だからマネージャー(私から数えると3代目?)になるのは当たり前、と思われたそうで…。まあ、アイツもインドア派だから、それで良かったんじゃないですかね。その後もマネージャー制は続いたそうです。今、卒業した中学でマネージャーがいるかどうかは知りませんが、〇〇中学のハンドボール部のマネージャーさん。私が初代のマネージャーです。私がマネージャー制を確立したんですよ。
まるで私は中華帝国の初代皇帝のような気分です。マネージャー制の開祖。何を隠そう、それが私。人生はトランプと同じようなものです。今がダメでも、ひっくり返せば使えるカードになりますよ。チャンスは誰の許にも来ます。ですが、それを掴むか離すかはあなた次第です。人生が楽しい舞台になるか、つまらない舞台になるか、それはあなたの判断しだいなんです。何が起きても諦めないで、ヒラメキを待ちましょう。その時は必ず来ますから。
おしまい