歴史を「知る」とはどういうことか
フィクションはあくまでもフィクション…
最近はいるのかどうか分かりませんが、いませんか?
自分のバイブルが司馬遼太郎の「国盗り物語」だという政治家さん。
織田信長を尊敬するのは自由です。でもフィクションの世界の織田信長を実際の政治に当てはめないで欲しいと思うんです。だって「国盗り物語」は史実じゃない、フィクションですから。あの世界は司馬遼太郎が作り上げファンタジーの世界。だからあの信長像は小説の中の主人公でしかありません。小説の中の信長は、小説の中だからこそ上手く政治や経済を回していけるわけです。フィクションの世界の中での政治や経済が、果たして実際の社会を上手く回せるのでしょうか?
例えば信長は、開かれた市場を推進することで、領内の経済の活性化を実現したと、みなさんイメージされてますよね?有名な「楽市楽座」です。でも、あれはファンタジーの世界の話です。あんな理想的な経済政策を信長の領内であまねくやったら、一気に経済がパンクします。なぜかと言えば、商人がそっぽを向くからです。じゃあ、刀でやっちゃえば?そう思いたくなりますが、信長と言えども、反抗した商人を片っ端から殺すことなど出来ません。そんなことをしたら領内の経済は崩壊します。楽市をやることは、「座」を形成する商人の既得権益を大いに犯すことになります。商人たちが納得した特定の地域で限定してやるのはOKです。実際、信長は領内3か所でしか「楽市楽座」をやってません。(安土2か所、美濃1か所)また既得権益というものは、一旦破壊してもしばらくすればまた別の権益が生まれます。信長が破壊しても、また新しく生まれるのです。破壊と再生を繰り返すなんて堂々巡り、忙しい信長はとてもやれません。
余談ですが
鉄砲は信長の専売特許だと思っておられる方、大勢いらっしゃるでしょう。実はあの騎馬軍団で有名な武田家も鉄砲を持っていました。少しですけどね。でも信長程は使えていません。主な理由は三つあります。
一つ目は武田家は信長に比べると、火薬の原料となる硝石が入手しにくいことがあります。信長が堺の商人を保護したのは、金ズルとして利用していたこともありますが、何よりこの硝石を確保する狙いがあったと思います。堺は日本でも有数の貿易港ですので、諸外国から硝石を輸入しています。その硝石を信長はたくさん持っていました。
また、信長は兵農分離がある程度進んでおりましたので、常備軍があったんです。武田家の兵隊は農作業の時期は動けませんし、軍事訓練も出来ません。対して信長軍(直轄の)は、基本的に傭兵ですのでいつでも訓練できます。鉄砲なんて扱うのは難しいですよね。相当の訓練を積まないといけない。信長軍はいつでも訓練して、いつでも発射OKなんですが、武田家はそうはいきません。限られた時間でしか軍事訓練が出来ません。ですから鉄砲の扱いも当然信長軍の方が上手かったわけです。
三つ目の理由としては、圧倒的な経済力の差です。信長は領内から上がる税や矢銭、あるいは禁制で儲ける特別手当も莫大な資金源となります。まあ、領地がとにかくデカいですから。そのフンダンな資金を使って鉄砲を大人買いするわけですね。他の大名はそれがしたくても出来ません。しかし、その鉄砲はどうやって入手するのか?信長が作っていたわけではありませんね。根来、国友などで生産した物を手に入れたり、堺で作った物を商人から仕入れたりしていますね。ですから、商人と対立することは信長にとってあまり得策ではありません。商人の既得権益を適宜保証することも、信長にとって大切だったのです。
歴史を利用する時の注意点
実際にやっていないことを、実際の政治や経済に活かすのは極めて危険な行為だと私は思います。何故なら、実際に行われていないことを、政治家のイメージでやれば、期待した効果を得られないばかりか、理想を追うあまりに誰も想像しないような悲劇的な状況になることもあるでしょう。
例えば先に例を挙げた「楽市楽座」を、経済活性化のタメだからと言って一刀両断でやってしまって良いのか?今でも商工組合とか商店街振興組合とかありますよね?そういうグループの意向を無視して、あれこれ政府がやっちゃって良いものでしょうか?何をやるにもネゴシエーションは大切ですよね。中央集権だからといって、末端の人々の意見を無視してアレコレやってしまって良いものか…。実際、信長は楽市をほとんどやっていないんですよ。
歴史を「知る」とは?
歴史学者がなぜ、歴史を研究しているのでしょうか?もちろん学者としての探求心や名誉のためというのはあるでしょう。でもそれだけでしょうか?
彼らは常に「真実」を求めて資料の発掘や研究を行っています。私たちが誤った歴史認識を持ったまま、「歴史」を利用しないようにするためであるとも私は思っています。
歴史はロマンであっても良いし、楽しくても良い。ですがもし、歴史を実社会において「手本」とするなら、それは限りなく「事実」でなければならないと思います。誤った歴史を学び実践することは、私たちをミスリードする可能性があります。私たちが歴史に成功や失敗を学ぶ生き物だからこそ、「歴史」は常にアップデートされなければなりません。仮に研究結果が間違っていても恥ずべきことではありません。次のステップにつながります。決して無駄ではないのです。
その意味で、私は歴史を愛する者の一人として、ロマンと共に「事実の探求」を深めていきたいと思います。それは過去に存在した偉人たちへの敬意でもあると思っています。誰だって、自分が「確実にこの世界に存在した」という証拠を誰かに見つけて欲しいでしょ?
歴史に関する様々な本を読んで、特定の一つの学説に固執するのではなく、他と比べてみて自分が揺るぎないと思える事実を探す。その瞬間、歴史はあなたにとって単なるロマンから事実へと昇華するのです。そうやって得た事実を実社会で活かしていく。それが私たちが歴史を知りたいと思う本質なのではないでしょうか?
おしまい