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今は亡き親父と、人生初の回転寿司へ行った時の話


トンデモ親父

とにかく酷い親父だった。新婚の頃は、何が気に食わないのか母親に殴る蹴るの毎日だったようで、
「お母さん、あんたを抱いて何回川に身投げしようと思ったか分からんわ」と笑いながら、母親が目の前で焼肉を突いている。そういえば、忘れることが出来るから人間は生きていけると聞いたことがある。母親にとって「忘却」とは一体どういう物なのだろうか。耐えかねた母親が、
を出すなら離婚する」
と言った次の日には、不思議なことに殴る蹴るは収まったのだとか。養子だから、家を追い出されたらたまらないと思ったのかも知れない。しかしその分暴言酷くなったらしい。それでも母親は殴られなくなっただけマシだと言っていた。本人に確かめたわけではないが、親父が無体な真似を繰り返していたのは、恐らく自分が「養子」に入ったという引け目を感じていたのだろうと思う。自分がよく知らない人間風下に立つのが嫌だったんだと思う。親に好き勝手甘えてきた人間だったから、何かにつけてプライドが高ったのかも知れない。あるいは親元から離れた孤独感がそうさせたのだろうか。

親父はちょっとした田舎の名士の次男坊だった。たまたま祖母が営むに来ていた馴染みの客が、
「うちの息子をもらってくれんかね?」
と祖母に話しかけたことが切っ掛けだった。とにかく愛想の良い客だったらしい。祖母は名士の息子だから、恐らく支度金をそれなりに積むだろうと皮算用したらしく、よく吟味もせずに母親との結婚決めてしまった。祖父は祖母に弱みでも握られていたのか、普段から意見を挟まないらしい。人間、欲を出すとろくなことがない。支度金はおろか、お客の息子はトンデモナイ暴れん坊で、義理の親の言うことなどどこ吹く風で、やんちゃのし放題。母親はまるで下女のような扱いだ。これほど酷い貧乏くじもあったものではない。

いつ母親から聞いたのか忘れてしまったが、親父の両親息子にかなり手を焼いていたようで、どうやら結婚させて早く家から追い出す算段をしていたそうな。子も子なら親も親だ。大概にして欲しい。

「私はね、結婚するつもりも子供を作るつもりもなかったんだわ。でも親が何度もしつこく迫るから、仕方なく結婚して、アンタを産んだんだわ」

そんな告白、いまさらされても困るんですけどね。親にそんなことを言われた子供の心境たるやいかばかりか…。ああ、俺のことか。そう言う母親は、私にお構いなく相変わらずカルビを焼いて食べている。しかし、当時の母親の心に気持ちを向けてみれば、そういうことを思っても仕方のないことだろう。むしろ母親が私と心中しなかったことを有難く思うほかはない。私が嫁さんと結婚して、人の親になるという気持ちにどうしても成れなかったのは、こんな酷い親父と嫁さんを将来同居させられないと思ったこともあるが、なによりこんな親父の血を引いている自分が、産まれた子供に対して、もしかしたら同じような「毒親」になってしてしまうのではないか、と恐れたからに他ならない。この件は、今でも嫁さんに本当に申し訳ないと思っている。この場を借りて謝罪をしたいと思う。

そんな酷い親父だったから、当然長男である私との仲は最悪だ。というか一族郎党、ほとんど全てが親父とは犬猿の仲だった。そう言えば、親父が健在だった頃、我が家に親族が親しく正月に集まった記憶があまりない。特に祖父母が亡くなってからは。でも親父が居なくなったのを契機に、毎年姉である母親の元へ、再び叔母たちが集まるようになったそうだ。こんな状態だったから、本人もさぞや生き心地が悪かっただろう。物心ついた時には毎日のように、
「ああ、つまらん。早く死にたい」
と親父が言っていたような気がする。それを聞いた母親は、
憎まれっ子世に憚る、なんて言うからあんたは長生きするわ」
と、冗談?をよく言っていた。私もそう思っていたのだが…。

親子なら仲が良くて当たり前だ、などとは「幻想の世界」の話だ。現実世界はそんなに甘くはない。しかし、嫁さん親子見ているとそうでもない。まあ、多少のゴタゴタもあるにはあるが、そんなものは可愛いものだ。当家に比ぶべくもない。嫁さんと結婚した当初は、そうした風景少々むず痒かったが、最近はこれが「家族」というものなのかもしれないと思えるようになった。人間は歳を取っても学習出来るものだなと思った。

親父との思い出

こんなトンデモ親父とも、親子であれば少しは思い出というものがある。

私が長らく勤めていた会社退職して、しばらく下宿で暇を持て余していた時のことだった。突然親父から電話があり、近くのスーパー銭湯へ行きたいと言う。変なこともあるもんだと思ったが、物心ついてからは、親父と風呂に入るなどはとんとないことだったから、たまには良かろうとついて行った。風呂やサウナに入ったものの特に会話はない。そろそろ帰ろうかと私が言うと、親父は露天風呂へ入ろうと言う。確かえらく寒い日だったから勘弁してくれと思ったが、たまの事だからと仕方なくついて行った。しばらく2人で並んで湯船に漬かっていると、親父がおもむろに言った。

「まあ、人生色々あるで、お前も大変だな。ゆっくり休めばいいぞ」

「はぁ~?」

生まれてこの方、この人にこんな温かい言葉を頂いた経験がない。私はとにかく理解に苦しみ変な気持ちのまま銭湯を後にした。これは随分経ってから考えたことだが、きっと親父なりに私のことを気にかけていたのだと思う。子供が職に就けず悩んでいるだろうから、親らしく言葉の一つでもかけてやるかと。今になって思えば、親父が親らしいことを私にしてくれたと思ったのは、この時だけだった。

脳梗塞で入院した時、親父は病床で涙を流しながら、家族にこれまでの非行詫びた。おもむろに財布を取り出すと、私に千円札を渡した。私は「なんで諭吉じゃないんだ」と思ったが、生涯を通じて、この親父から貰った「小遣い」はこの千円だけだ。親父はとにかくケチだった。本当にケチなのだ。私はすぐにこの金を使ったが、何に使ったのか全く覚えていない。しかし何のために呉れたのか?親父なりの贖罪のつもりだったのだろうか。今となっては確かめようがない。

大阪で生まれたという「回転寿司」が、私の住む地方に伝来した時の話。当時、寿司が回るとはどういうことか、皿が回ったら食べられないじゃないか、と思ったものだ。それを確かめに行きたいと親父が言った。親父が払うと言うので、この時ばかりは喜んでついていった。
日曜の昼時だというのに、店にはなぜか私と親父の2人だけ。入店してすぐに皿が回らないことを「確認」した。がっかりする親子。まあ、考えれば分かること。皿が回ったら食べられる物も食べられない。レーンと呼ばれるベルトコンベアが周回しているに過ぎない。その上に置かれた寿司の皿が自分の目の前に現れるという寸法だ。私も親父も、
「これを回転するとは言わんだろう」
などと言って苦笑したのを覚えている。お客が私たちだけだから、店員は当然私たちの目の前にいる。親父は注文した皿が目の前に突き出されると、信じられないことを店員に向かって言った。

「レーンの上に寿司を置いてくれ」
「は?」

私は耳を疑った。そのまま手に取れば良いじゃないか。しかし親父はこう言う。
「せっかく来たんだから、寿司を回してみたい」
と。親父の手前に置かれた皿は、レーンによって一周回って親父の目の前到着した。親父はそれを上手そうに食べた。
お前もやってみろ」
そう言うと、私の目の前に出て来た寿司の皿をレーンに置いた。私は恥かしい気持ちを噛み殺しながら、一周回って来た皿を手に取った。親父はいたく満足そうだった。よく考えてみると、物心ついてからは親父と2人で食事をしたのは、これが最初で最後だった。それだけにあの時のことは今でもよく覚えている。

親父の葬儀が終わってしばらくして、生前に書いたと思しき日記帳が出て来た。パラパラと捲っていると、こんなことが書いてあった。
「自分は中学しか出ていないから、長男には大学卒業させてやりたい」
あんなクソ親父がそんなことを思っていたとは。私がこうして文章を書いて楽しむようになったのは、大学で文芸部へ入部したことが切っ掛けだった。なにか不思議な気がする。さらにこの日記帳には、日記には相応しくない文章も書いてあった。

「私はこんなに周りを傷つける自分のことが嫌いだ。だがどうしようもない。どうしたら良いんだ…死にたい。でも死にたくない」

もちろん、日記だからといって本音を書いているとも言えないし、そう思っている自分に酔っている可能性もある。親父は嘘をつくことに無頓着な人間だったから、これも恰好を付けるためのなのかもしれない。日記の内容を、どう自分の脳内で整理すべきか分からなくなり、私はそっと日記帳を閉じた。その日記帳は、その後一体どこへ行ってしまったのか。何度実家へ行っても見つけることは出来ない。

私たちの結婚式でのこと。親族紹介の折、親父は自分のことを「新婦の父親です」と言って参列者笑いを誘っていた。母親に聞いたところ、親父は私の結婚を大層喜んでいたそうだ。変わり者の私が、結婚出来るとは到底思っていなかったのだとか。その喜びが高じて思わず新郎を新婦と言い間違えたのだろう。私のような面倒くさい人間と結婚しようと思ってくれた嫁さんには全く頭が上がらない。

あとひとつ、私が生前の親父と最後に会った時の忘れなれない思い出があるのだが、それは私の胸の内にそっとしまっておきたいと思う。この時のことを文字に出来る程私は文章が上手くないし、言葉にするとどうしても陳腐になってしまうから。

記憶に残る親父

その日、親父はいつものように畑に出かけた。肥料を持っていくためだったとか。ただいつもと違ったのは携帯を持って行ったことだった。普段、親父が畑に行く時は、近いからと言って携帯を持っていくことは無かったそうだ。それがその日に限って携帯を持って出た。母親が親父の死に顔を見ながら、
変だと思ったんだわね。いつも携帯を持って出ないのに」
不思議そうに言った。
虫の知らせとは良く言ったものだが、果たしてそれがそうだったのかは分からない。まさかそんなに珍しいことが自分の身に起きるとは、いまだに信じていない。だが結果的にそれが幸いした。畑で倒れているところを、運よく近所の人に見つけられ、持っていた携帯から母親に連絡が来たからだ。医者によると心臓の血管が破れていたのだとか。死因「心筋梗塞」。親父は高血圧であったが、心臓を患ったことは一度とて無い。母親が思い出したように、
「そう言えば最近、ちょっと動いただけでしんどいしんどいと言っていたわ」
と。だとすると、しばらく前から患っていたのだろうか。

棺桶の中で寝ている親父の顔は、この上なく幸せそうだった。
「こんなに幸せそうな顔を、お父さんは私にいままで一度も見せたことがないわ」
母親は笑ってそう言った。目の前で眠っている伴侶には、随分と苦しめられたはずなのだが、母親はにこやかに笑っている。
「最近は寝れない寝れないと言ってたから、ゆっくり眠ってね」
どこまでも母親は笑顔だ。母親は親父の好物だからといっておはぎわざわざ作ってお棺に入れた。毎日飲んでいたからと、コーヒーで口元を濡らしてもやっていた。

夫婦の間には、例えどのようなことがあろうとも、その「間柄」でしか分からない「言葉には出来ない複雑な心情」がある。母親の姿を見ていると、他人がとやかく口を挟める余地はないのだと思った。私はただ「この人にとっては本当に幸せな人生だったな」と言うのが精々だった。

人間の最後の仕事は、脳内をドーパミンで満たすことだそうだ。それだけ死は人間にとって負荷がかかることなのだろう。負荷がかかれば苦しそうな死に顔になるのだろうが、ドーパミンのお陰でそうはならない。知らない人が親父の死に顔を見たら、「お父様はさぞや幸せな人生だったんですね」となる。だが間違いなく、私の親父は家族にとってトンデモナイ人間だったのだ。私がこれまで、多くの人に迷惑をかけ嫌われて来たのは、恐らくはこの親父の血の成せる業だと思っている。私はこれまで、なんどとなく自分の生まれを呪ったものだ。しかしその相手は今、額縁の中で微笑んでいる。

親父はどこまでも卑怯者だ。人生の最期に、こんなにも幸せそうな顔私たち家族に残しやがった。本当に最悪な父親だ。私はこの親父の寝顔をどうやって記憶に残して良いのか、3年経った今でも検討がつかない。

回転寿司に行くたびに、そんなことを思う私である。

                              おしまい

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