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新国立劇場オペラ『椿姫』千秋楽レポ 〜リアリストが心動かされるとき〜

高級娼婦ヴィオレッタと青年アルフレードの真実の愛を描いた傑作、ヴェルディ『椿姫』。
この原作が好きすぎて最初の投稿のテーマにしたのだが、今回は新国立劇場で上演の千秋楽に駆け込みできたのでそのことを書いていきたい。

第1幕 〜現実主義の崩壊〜

享楽的な生活を送るヴィオレッタが、アルフレードの真剣な告白に希望を見出す場面。

ヴィオレッタのアパルトマンでパーティが開かれているが、彼女の体調は良くない。しかし、客たちは「大丈夫?」と声かけるものの、食事の用意ができるとそそくさと部屋を出て行ってしまう。

ヴィオレッタはそのような客たちの無関心な態度には、特に何も感じない。
自らが1人の人格としてでなく、単に娼婦として認識されていることを理解している。病気の慰めとして他人に助けを求めることも、期待することもない。

恋愛小説に描かれる若い女性たちと比較して、ヴィオレッタは自分の立場を理解し、特に希望的な観測をすることもないリアリストの傾向が強い

しかし、自分の体調を純粋に心配する(原作では初めて心配してくれた人、とある)アルフレードの気持ちは、ついにヴィオレッタの心を動かす。

この時ヴィオレッタがアルフレードに渡した椿はなぜ赤なのかは気になった(公演のポスターも赤の椿がモチーフだった)。原作のマルグリットといえば白!だと思っていたのでシンプルに疑問を抱いた箇所ではあった。

アリアSempre libera、千秋楽では現実主義と希望の狭間で揺れ動き、自身を納得させようとするヴィオレッタの気丈な態度が繊細に表現されていた。
ここで1回目泣いた。

第2幕 〜楽天主義と現実主義の衝突〜

ヴィオレッタは療養のため、アルフレードとともに田舎へ移る。しかしここで、アルフレードはただ純粋なだけの男ではないことがわかる。

ヴィオレッタが生活のために自分の財産を売り払うことに対して「女性に金を払わせるなんて」と思い、その売却を止めようとする。
ただし、その際今後生活費をどう捻出するかなど、具体的な金勘定は一切しない。

アルフレードは向こう見ずで冷静な将来設計ができないという、かなり大きな欠点を持つ男なのである。
この堂々として真っ直ぐ、自分達が幸せになれると信じて疑わない態度は、アルフレード役のマッテオ・デソーレの力強い歌声に反映されている。

また、アルフレードは人の気持ちを汲み取ることが苦手な人物のようにも見える。

父ジェルマンは、息子が階級を無視した恋愛に浮かれていることというよりも、恋愛に心を奪われて家族のことをすっかり忘れ去っていることが我慢ならないように見える。
愚かな息子はそんな思いにも気付かず、ヴィオレッタとともに暮らすことについて事前に家族に相談しない。それどころか、原作ではヴィオレッタと一緒に過ごしたいがために帰省も先送りにしている。
アルフレードは家族を蔑ろにしながらも、自分の行動は「きっと受け入れてもらえる」と考えている。

父は、何処の馬の骨ともわからない女に息子を奪われている状況が許せない。
そのため、ジェルマンはただ「妹の結婚のため身を引いてくれ」とだけ言えばいいものを、「時が過ぎれば美貌は衰え、変わりやすい男の心は簡単に移ろう」ときつい言葉をヴィオレッタに投げかける。

つまり「お前が真実の愛だと信じるものは、お前が今まで経験してきた気まぐれな付き合いと何ら変わりないのだ」と突きつけるのである。
アルフレードのような楽天主義者なら「そんなはずはない!」と突っぱねそうだが、ヴィオレッタが元々自分の立場を客観的に捉えているために、この一言は必要以上に心を抉ることになる。

アルフレードの楽天主義とヴィオレッタの現実主義は直接的にも間接的にも激しくぶつかり合い、結果的にはかえって互いを傷つける。
しかし、今まで現実主義的に生きてきたヴィオレッタが、「アルフレードはきっと私の思いをわかってくれる」と希望を持つのは、やはり彼の影響だろう。

第3幕 〜宗教への帰着〜

フィナーレは現実と希望の応酬である。
夢にまで見たアルフレードとの再会、にもかかわらず自分の命が残りわずかだという絶望、予期せず愛する人の父が自分を認めてくれた安堵。

死の迫るわずかな時間のなかで、ヴィオレッタは絶望と喜びの間を何度も往復する。
最後には、体の痛みは取り去られたことから、「もう一度生きられる」という最上の喜びを胸に死んでいく。ヴィオレッタはリアリストから脱却し、自身の幸せを素直に受けとめている。

「真剣な愛?そんなものはない」と言っていた彼女がアルフレードの荒削りだが真っ直ぐな性質に魅了され、愛する人の唯一無二の存在になるという人としての喜びに気づく。
自身と恋人の救いのために心の底から祈った結果、「復活」という救いが与えられているのである。

文字起こししただけでもこの感動が呼び起こされるが、舞台のドラマチックなラストはさらに絵画的で、カラヴァッジョの『法悦のマグダラのマリア』さながらだった。

この第3幕でヴィオレッタが横になる寝台と、アルフレードやジェルマンとの間は、ベールで仕切られていた。ヴィオレッタが観客側、アルフレードたちが舞台奥である。

これは死にゆく者と生きる者との境界、そして喜びを感じるヴィオレッタと罪の意識に苦しむ男達との境界となり、より感情の起伏が大きいヴィオレッタに覆いがなされていないことで強烈な印象を残した。
加えてヴィオレッタとアルフレードらの間に幕が降り、結局彼女は1人で死ぬという、原作の尊重があった。

なんといっても中村恵理さんの表現する締め付けられるような痛みと最上の喜びの入り混じるヴィオレッタの最期、主題の明確な演出に、拍手が鳴り止まなかった。

本当に素晴らしいとしか言いようがない、心に残る公演、26歳になる前に優待をたくさん使うことを決心できた(新国立劇場はU25チケットで、25歳以下は5,000円で鑑賞可能。私はA席を利用できた。)。

舞台芸術の素晴らしさ、大きなエネルギーを改めて体感した。ぜひ沢山の人に、気軽に観に行ってほしい。

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