バズるよりも自分の言葉で世界を切り拓く『ここじゃない世界に行きたかった』
誰もが「ここじゃない世界」を求めている
「自分の居場所はここだ」と胸を張って言える人はどのくらいいるのだろう。毎日変わり映えしない景色を横目に満員電車に揺られ、同じ場所で同じ仕事をこなすだけの毎日……。「自分の居場所はここじゃない、ここじゃない世界に行きたい」と考えたことがある人は多いのではないだろうか。
文筆家の塩谷舞さんもその一人だった。
彼女はかつてインターネットでバズる記事を量産し、「バズライター」と称され新時代のインフルエンサーとして活躍した。しかし、他者からの期待に応えるために大衆の求めるものを書き続けた結果、自分の心がどこにあるのかわからなくなり、心身ともに疲弊してしまう。
そんなころ、芸術家である彼女の家族が現代アートの中心地、ニューヨークで挑戦するために渡米することになった。「知らない世界へ行ってしまいたい」という逃避欲が募っていた彼女は、家族についていく形で「バズライター」としてのキャリアや実績から離れ、ニューヨークへ移住を決める。
はじめは慣れない異国暮らしに苦労するが、言語や文化の壁があるからこそ頼りになるのは、長年ふたをしてきた自身の感性や美意識だった。家の中のすみずみまで目を向け、暮らしを整えていくうちに、彼女は次第に「美しいものを美しいと思う」自分の心を取り戻していく。
そして、そこで得た新たな視点や出会いを、noteの定期購読マガジンで限られた読者に向けて静かに発信し続けた。
そうして綴られたエッセイをまとめたのが本作『ここじゃない世界に行きたかった』(文藝春秋)である。
視野を広げてくれる一冊
わたしは本作が発表される前から塩谷さんのnoteを定期購読していた。彼女と同い年で同じようにインターネットで文章を書く仕事をしている(書いた記事がバズったこともなければインフルエンサーでもないので比べるのはおこがましいけれども)わたしにとっては共感する部分も多く、いつしか彼女のファンになっていた。
本作では、流れの速い現代社会で塩谷さんが自分を見失わないために、立ち止まり、そのたびに考え、自らの意思で歩みを進めていく日々の記録が、しなやかでみずみずしい文章で綴られている。
付き合う人も、住む場所も、消費行動も、働き方も一つひとつ見直して、住む世界を少しでもよい方向に進めるために行動する彼女の生き方は憧れでもある。
共感の先にあるもの
ただし、彼女の綴る文章を読んで生まれる感情は、ただの共感だけではない。自らの感性を磨き、美しいものを愛し続けるためには、物事が生まれる背景にも目を向ける必要があると彼女は主張する。
美しいものに惹かれる一方で、それが社会的弱者や動物、地球環境などの犠牲の上に成り立っているものであってはならない。
彼女はこれまでインターネットを巧みに利用して人々の消費行動を促進してきた。しかし、それが大量生産・大量消費・大量廃棄社会に加担していたことを悔いている。だからこそ、自分にできることとして本作の中では環境問題や人権、政治などの社会課題も多く取り上げ、時間をかけて丁寧に自身の考えを書き綴っている。
彼女の主張や意見は必ずしもすべての人に受け入れられるものではないかもしれない。彼女自身も本作の冒頭で「異なる視点を持つ友人が一人いる――それくらいの感覚で読み進めていただければとても嬉しい」と綴っている。
特に、環境問題への意識は人によって大きく異なるだろう。
日常の中でも「使い捨てのほうが便利で衛生的だ」「金銭的余裕がなければエコなんていちいち気にしていられない」など、エコ活動に対して否定的な意見もよく耳にする。わたし自身も洋服はファストファッションが多く、遠出をするときはペットボトルを買ってしまうことも多い。
それでも、彼女のnoteや本作を読んでからは、ものを買う前に一度立ち止まって考えるようになった。
恥ずかしながら、今まで商品やサービスの背景にまで意識を向けることはほとんどしてこなかったけれど、少なからず意識を向けることで見える景色が変わった。自分が本当に大切にしたいものへの解像度が上がったのだ。
本作は読んでただ共感する、納得するだけの本ではない。自分ならどう向き合い、どう行動するのか考えるきっかけをくれる一冊だ。
環境問題をはじめとした社会課題は、すぐに答えが出せるような簡単な問題ではないけれど、だからこそちゃんと向き合って考えたい。何度も読み返してそのたびに考え、自分の視野が広がるのを実感できるのはうれしくもある。
自分のための理想郷はどこにも存在しない
本作の最後の章で塩谷さんは、「世界のどこに行ったって、自分のために用意された理想郷は存在しない。だったら自分でやるしかない」と綴り、決意表明をしている。「ここ」をつまらない場所にするのも、新しい世界で道を切り拓くのもすべて自分次第なのだ。
本作を読んでいると、わたしも彼女の頭の片隅を借りて、長い長い旅をさせてもらえたような気分になる。ずっとぼんやりと「ここじゃない世界に行きたい」と思いながらも、行動に移せず同じところをぐるぐるしていたけれど、心のもやが晴れていくような感覚だった。
人生に行き詰まり、息苦しさを感じたときにこの本を読むと、スーッと呼吸が楽になる。わたしにとっては水や空気のような、なくてはならない心のお守りになった。
「ここじゃない世界に行きたい」と思っている人や何かに迷っている人にこそ、ぜひ読んでみてほしい。読んだ後にはきっと今まで見えていなかった新しい世界が広がっているはずだ。
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