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認知症の祖母と私とお別れのこと

私の実家で母方の祖母を引き取ったのは、8年ほど前になる。
農業と食品加工業で生計を立てていた祖母の、様子の変化に不安を覚えた母が、お正月だけでも滞在しないかと持ち掛けたことがきっかけだった。

その後徐々に滞在日数が増え、一人で生活できないほど認知症の症状が進んだ今は、完全に同居している状態だ。

祖母は記憶の持続が出来ない状態にある。

「雨が降っている」という話も、
話をしたこと自体をすぐに忘れてしまうため、同様の話題を繰り返す。

「雨が降っとるね。今日は外に出れんね」
と祖母が言えば、
「そうだね、滑るからねぇ」
と私が返すことを何度も繰り返す。

最初のうちは毎回違う言葉を返してみたりもしたが、なかなかエネルギーを消費するため、同じことには同じ反応を返すことにしている。
でもたまに、5回に1回くらい、
「雨が降っとるね、前回布団を干したのはいつだっけ?」
と全然違う方向に話を持っていかれることがあり
「滑るからねぇ」と言おうと準備していた私をどもらせることがあるので注意が必要だ。

また、記憶の持続が出来ないということは、
なぜ自分がここにいるのか、今はいつで、ここはどこなのか、
そういうことが唐突に分からなくなる瞬間が訪れることを意味する。

そうなると祖母は泣き出してしまうので、
これを慰めるのは非常に労力と時間を使う。
順を追って説明しても、本人には覚えがないことなので、余計な混乱を招き、さらに悲しくさせるという負のスパイラルに陥る。

特に、目が覚めたあと、お昼寝あとにこの現象が起こるので、
私は、「ばあちゃん寝かさない作戦」を決行することにした。

テレビを見ていると思っても、ちょっとした隙にばあちゃんは居眠りをしてしまうので、これは難易度の高いミッションである。
一緒にお出かけして時間を稼ぎ、お茶やお菓子を勧め寝ていないか確認、
マフラーをおねだりし、編んでもらうことで指を動かさせ、
時々怒らせて(怒ると脳が覚醒するのか、反応が良くなる)、ぼーっとするのを防ぐ。

この「寝かさない作戦」がうまくいくと、夜ご飯を食べたあと、朝までぐっすり寝てくれるため、
夜中に起きて来て、考えすぎて泣いたり、家人を起こしたりすることもなくなる。
ただ作戦実行者の1日を消費ことが難点だ。
つくづく、医療や介護に従事する方はすごいと思う。

私は子供を育てたことがないのだが、もしかしたら子育てもこんな感じなのかなと思う。
だが、保育士の母に言わせると「全然違う」のだそうだ。

「子供は成長する。出来ないことがどんどん出来るようになっていく。
でも老人は逆で、出来ないことがどんどん増えていく。そばで見ているのがつらい」
介護の厳しさは、こういう心の持って行き様にもあるように思う。

アンソニー・ホプキンズ主演の「ファーザー」という映画を見た。
認知症のアンソニー(役名もずばりアンソニーである)の視点がすべての映画である。
アンソニーの混乱はそのまま、鑑賞者の混乱につながる。
娘の旦那だと思っていた男が、すり替わっているのはなぜ?
ここは自分の家なのに、違うと娘は主張し、朝ドアを開けると別の場所に出てしまう。
どれが現実なのか、それとも妄想なのか、画面からヒントを拾おうとして、懸命に探しながら見ているがわからない。
自分には身に覚えのないことでうんざりされたり、怒鳴られたりする恐怖。
ミステリー仕立ての映画になっていて、非常に面白かったが、これが認知症の人の視点なのだと思い知った。

祖母は年単位の記憶も徐々に失われつつある。
現在は20年ほど逆行しており、私が京都に住む大学生だと思っている。

京都に住んでいたころは、よく祖母が遊びに来た。
一緒にいろんなところに遊びに行った記憶が、鮮やかなのだろう。

祖母は売り歩きをしていたこともあり、足腰も丈夫で小銭の計算も早く、
にぎやかなことが好きで、踊ったりふざけたりするのも大好きだった。
現在は、少し歩いただけで非常に苦しそうにハァハァ息をする。
心臓が弱ってきているのだと思う。
足もむくみやすくなり、足を延ばして座れるようにソファーを買った。
そこに座らせても、すぐに忘れて足を下ろしてしまうため、一日に何度も足を延ばさせ、ひざ掛けをかけ直す。

お別れが近いのかもしれない。
その日まで「ばあちゃん寝かさない作戦」をして、悲しい気持ちの回数を減らせたらいいのだが、
私も仕事があるし東京に戻らなければならない。
正月が終わったあと、後ろ髪を引かれる思いで帰宅した。

祖母だけでなく、実家の老犬もお別れが近い。
生き物である限り、お別れは平等に訪れる。

私はここにいていいのだろうか?
してあげたかった事、出来なかったこと、今ならまだ間に合うのに、自分の生活を優先するのは間違っているのではないだろうか?

葛藤しながら、正月に出来なかった、カプコンのゲーム「ときめきメモリアルgirl s side 4」をぼんやりプレイしていた。
高校三年間をエンジョイするこの乙女ゲームの中で、主人公の担任の先生が言った。

「できなかったこと沢山あると思うけどさ、それを引きずる必要ないぞ。できなかったことより、できたことを思い出して生きていけよ。小さいことでもいいんだ。できたことを大切にして、人生で何度も思い出せばいい。そしたら、妙な後悔にとらわれることもなく、ずーっと、前に進んでいける」

重要なイベントでもない、ほんの日常の一コマのセリフだったが、身に染みた。
どんなに精力的に行動しても、満足することはないのかもしれない。
そして本当にお別れが来たら、やっぱり後悔を繰り返すようにも思う。

でもそれでいいような気がする。
お別れの時に、もっとずっと一緒にいたかったと泣いても、一緒に過ごした日々を何度も思い出せればいい。
その思い出を持っているということが、尊く、宝物だと言えるのではないのだろうか。

残念なことにお別れを繰り返しても、私がこの世にお別れするまで、終わりは訪れない。
パーティーの仲間を失っても進んで行かなければいけない私の道が、前へ前へ伸びていけるよう、私は私を鼓舞している。

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