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8月のかけらたち
8月も過ぎるのがはやかった。
今月も断片的にふりかえり。いつかの自分にあてた備忘録です。
某日-1
大人の写真部に参加。軽井沢と小諸へ撮影に行った。メンバーのなかにはお世話になっている人も、初めてお会いする人もいた。みんな大先輩だから、私なんかがいていいのかどきどきしていたけれど、カメラを持って街を歩いているうちに、そんな不安は消えた。楽しかった。夢中でシャッターを切っていた。
写真はおもしろい。撮るのも見るのもおもしろい。人によって、世界の切り取り方がちがう。何気ない一瞬が永遠になる。景色が記憶になる。久しぶりに動けて、Nikonもうれしそうだった。
以来、写真て楽しいなと再発見し、新しいカメラがほしくなってしまった。大学一年の春に買ったNikonの一眼レフを、これまでずっと使っていた。次は、GRⅢのDiary editionがほしい。諸々の経済状況を考えて手を出せずにいたけれど、最近ひとりでふらふらお散歩することが増えたこともあり、「買うべきなのでは」という気持ちが強くなった。
忘れたくない一瞬を、頭だけに任せておくのには限界がある。言葉にすると、彩度や濃度がすこし変わってしまう。そのままを切り取りたい。今こそ必要なんじゃないか。とりあえずカートに入れた。えい、と覚悟を決めたら買おう。次の会までには手元にあるといいな。楽しそうに生きている大人はまぶしい。私もああなりたい。
某日-2
お盆中は、甲子園をみた。毎年みているわけではなかったのだけど、今年は結構しっかりみた。
一度、雨で試合が中断した日があった。しばらく待って再開になったとき、審判の方が、心から選手を労る笑顔でボールを手渡しているのをみた。その瞬間が、甲子園というものを物語っている気がした。
よく、ミスしても死ぬわけじゃないとか、負けても死ぬわけじゃないとか、そういう言葉を聞く。
でも、と思う。
甲子園でたたかっている彼らにとって、負けることはある種、死ぬことと同義なのではないか、と。
彼らがどれだけの時間と思いを、この日のために注いできたか。ほんとうに計り知れない。
だからこそ、負けても死ぬわけじゃないなんて慰めは、彼らにとって何にもならないのではないか。
負けることは、勝てるかもしれなかった自分たちが、一度死ぬことだ。彼らはそのことを誰よりも受け入れて、マウンドに立っている。
だからこそ、彼らのプレーはどうしようもなくまぶしくて、観るひとの胸を打つのだと思う。
たとえ、彼らが高校を卒業して野球から離れたとしても、かつて甲子園を目指し、甲子園でたたかった記憶は、救いであってほしいと思った。悔しいとか苦しいとかうれしいとか、そんな汎用の言葉では表せないくらいの感情が、彼らを生かすものであってほしいと思った。
何かが終わることは、すべてが終わることではない。けれど間違いなく、何かは終わる。私たちは終わりながら生きている。終わることは希望であってほしい。まぶしくて、何度も胸が震えた甲子園だった。ありがとう。
某日-3
ひとりで焼き鳥屋に行った。ひとり〇〇、を更新しつつある。店はビルの奥まったところにあって、中が見えなかったから、ちょっとびびって入口でうろうろしてしまった。まあ待ち合わせなんですけどね、みたいな顔をしてみたりした。勇気を出して入ると、アットホームでいい雰囲気のお店だった。お通しも充実していて、おまかせ串もみんなおいしかった。とくにレバー!ノンアルコールビールを飲みながら焼き鳥を食べ、片手でこっそり原稿を書いた。背後から聞こえる笑い声。
ひとり〇〇のいいところは、思う存分原稿を書けること。最近の私は、休日になると寝ても覚めても原稿を書いている(仕事とは別の執筆)。誰に頼まれたわけでもないし、実る保証もない、もちろん一銭にもならない。それでも書かずにはいられない。この衝動は、大人になれば収まると思っていたけれどそうではないらしい。秋まで仕上げようと思って書いている。歩いていても食べていても、脳内に文章が流れている。登場人物たちのことを考えている。だから勇んでひとりになって、綴れる場所を探しに行く。
でも、ずっと考えていると煮詰まるので、強制シャットダウンも必要だ。今朝はスマホもPCも本も置いて、久しぶりに朝ごはんを食べた。焼いたパンがおいしい、と思った。一息つくとまた書きたくなった。エンジンは持続可能に回したい。回しすぎて故障しないように。
次はなんのひとり〇〇をしよう。
某日-4
考えることがいろいろあったので、本をたくさん読んだ。江國香織さんがおすすめしていたジョン・ファンテの「満ちみてる生」。古賀史健さんの「さみしい夜にはペンを持て」。村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」。読書録が追いつかない。さらには積読が背後に差し迫っている。これから寺山修司の「家出のすすめ」と、ライターの大先輩におすすめされた「新釈 遠野物語」を読む予定。わわわ。
忙しさを理由に、読書から離れないようにしたい。でも、読書は義務にしたくない。ひとは必要なときに必要な本と出会えると信じているから。読みたいと思ったとき、彼らはいつでもそこに居てくれる。だから私は本が好きだ。
某日-5
夏が好きなので、夏の終わりはかなしい。夏は生死の境目が曖昧になる気がする。お盆があるからだろうか。眩しくてくるしい。
だいぶ幼い頃から、夏になると「懐かしい」と感じていた気がする。私は前世かどっかで、夏に大事な忘れ物をしたのかもしれないと思っている。今年は回収できたんだろうか。まだ懐かしいと思っているから、できていないんだろうな。
少年時代を口ずさんでみる。小学校の合唱で歌って以来すごく好きで、でもカラオケでは歌わない。少年時代を生きているときは、今が少年時代だと気づかない。
夏休み明けの子どもたちを見て、生きるんだぞ、と思いながら泣きそうになった。誰なんだ私は。情緒は大丈夫なのか私は。夏は情緒を美しく乱してくれる。
人生で経験できる夏には限りがあって、そのひとつひとつがかけがえのないものなのだと、ことあるごとに思い出していたい。人生は続く。日々は流れる。今を生きる。夏を見送るように振り返れば、足跡はいつもそばにある。