振り向けば、そこにある。

「じゃあ、元気で。」

そう言って、ひとり店を出た。

覚悟はしていたこととはいえ、その現実の残酷さが辛かった。現実に起こった出来事なのに、あまりに非現実的で、この状況をすぐに飲み込むことができない。まるで、世界と自分が分断されてしまったかのような。

店を出て、地下1階からエレベーターで地上に上がる。足元が粉々に崩れてしまったから、うまいこと歩くこともままならない。ようやく歩きだしたら、その途端にもう涙があふれるのだった。

そのまま大きな池のほとりまでフラフラと歩いていき、そばにある屋台で缶チューハイを買った。ベンチに座り、一人泣きながらその缶チューハイをあおる。夏の残り香が漂うなか、池のほとりを歩く人たちは、誰も私の悲しみを知る由もなく、皆、穏やかで楽しそうだ。その場にいる人たちの中で、まるで私ひとりだけが、その穏やかな日常からはみ出してしまったような気がした。

これが現実。こうなることはわかっていた。どうやっても避けられない。それでも1%の奇跡を、心のどこかで期待していた。そんな奇跡は起こらなかったけれど。

もうこれから、あの人に会うことも、連絡を取ることすらない。あの笑顔も、あの声も、あの暖かな手も、あのずっと見つめていたくなる瞳も、あの仄かに甘い香りのする、ずっと触れていたくなる肌も、すべて失った。それでもいいと、そうあの人が結論を出したのなら、もはやそれには抗えない。抗ったところで何も変わらない。人の気持ちは、一度決まってしまったらそう簡単には動かせないことを私は知っている。一気に飲み干した缶チューハイのせいで、さっきよりも足元がおぼつかない。それでもさらに池のほとりを歩き始めた。半周ほどしたところで、このままここにいてはいけない気がして、いま来た道を引き返し、駅へと向かった。

それからは、あの駅に降り立つことはしなかった。降り立ったら、あの時の辛さが甦りそうな気がしたから。それなのに、なぜだか私はふいに、あの時の道を今一度たどってみようと思い立った。傷はまだまだ深かったけれど、今なら冷静にあの時を振り返れる気がした。その行為は、確実にあの時の辛さを思い出させることなのに、なぜかそうしたいと思ったのだ。

あの駅に降り立つだけで、胸がきゅっと締め付けられる。痛みに近い。そういう場所になってしまった。でも、これまでの恋愛にだって、そういう場所はたくさんあって、それが人生の一部になっているのだろう。そうして私は、あの時と同じ道のりをたどるべく、ゆっくりゆっくり歩を進め始めた。

あの日、もう何も救いがないような、絶望的な気持ちで歩いたこの道を、今はもう少し軽やかな気持ちで歩けている。その安堵と嬉しさ。

大きな池のほとりを歩く。あの時、半周しかしなかった道を、今度は一周まわりきることにした。あの時はまだ夏が色濃く残っていたけれど、今は手がかじかむほどの寒さだ。灰色の、重たくどんよりとした雲が空を覆っている。凍てつく空気を吸い込むたびに、鼻の奥がツーンと痛くなる。

ちょうどあの時引き返したあたりにあるベンチに腰を掛けた。すると前方に、どんよりとした雲に向かって真っ直ぐに伸びるスカイツリーが目に入った。驚いた。今のいままで、そこにスカイツリーが存在していることに気付いていなかった。それは、ずっとそこに存在していた。あの時も、ずっと。けれどあの時の私には、いまこうして眼前に、鈍色の光を放ちながら威風堂々とそびえ立つスカイツリーすら目に入らなかった。まわりを見る余裕なんて、どこにもなかったのだから。

こんなにも目に入りやすい建造物すら見えていなかったことに、軽い衝撃を受けた。けれどあの時見えなかったものが、いまはこうして見えている。それは、あの時と同じ道をたどりながらも、あの時とは違う自分になったからこそ見えた景色。それこそが私の救いだ。痛みは消えない。何年かかっても。それでも私は今日をきちんと生きている。あの時感じた絶望は、私から生きていく気力も奪った。けれど、いま私がここにこうして存在することができているのは、少しずつ自分を取り戻すことができたから。だからこそこうして目の前の景色がちゃんと見えるようになったのだ。

もうそれがわかれば充分だった。私は立ち上がり、池のほとりを再び歩きだした。あの時を振り返り、そしてあの時から止まっていた時間を、また、動かし始めるために。

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