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どんなに言葉を尽くしたとしても…

人は平等じゃない。

「どんなに言葉を尽くしてもわかりあえない人っているでしょう?」

その問いに、それは言葉が足りないだけだと言いきれてしまう人たちもいる。

そう言いきれる彼らのほうが幸せなような気もするし、羨ましいなと思うその一方で、どうやってもわかりあえない人がいるという現実を知っている私のほうが、この人たちよりは多少他人の痛みがわかるような気もしている。

彼らの「それは言葉が足りなかっただけ」という言葉は、私をひどく傷付けた。まるで私の努力が足りていないみたいに、軽く、何の気なしにさらっと吐いた言葉。
おかしなことに、彼らがその言葉を吐いたその瞬間から、彼らと私もまた、どんなに言葉を尽くしてもわかりあえない関係になっているのだ。でもそこには気づかない。

生きてきた環境があまりに違うと、同じ国に生き、同じ言葉を話しているはずなのに、どこかとても遠く離れた異国の人と話しているような、そんな気持ちになることがある。そのくらい、私とその人たちの間にある、どうにもわかりあえない隔たりは大きい。

彼らはずっと、言葉を尽くせばいつか人と人はわかり合えると信じて生きていく。それができないのは言葉を尽くしていないからだと。

私は知っている。どんなに言葉を尽くしても、わかりあえない人たちがいることを。父も姉も友人も。何度も泣きながら訴えた。わかってほしくて。わかりあいたくて。そのたびに痛いくらい味わった。どうにもわかりあえない苦しみを。

なにを信じるのかは、それぞれの自由。
でも私が話したいのは、わかりあえない現実を知っている人たち。だからこそ、じゃあこの現実にどうやって折り合いをつけていこうか?と話し合える人たち。

はたしてどちらが幸せなんだろう。私にはわからない。そもそも比べること自体が不毛なのだろう。それでも私の頭のなかでは、ぐるぐると行ったり来たりの考えが渦巻いている。不毛な思考は、まだ止まらない。

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