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冷酒

「今日もきみの料理は美味しいね」
そう言って微笑むあなたの笑顔がわたしは好きだった。
こげ茶の大きめの陶器の皿に盛られた肉じゃががホカホカと湯気を立てる。
日が暮れ始めても、もうシャツ一枚で過ごせるほど暖かくなったのに、相変わらず、あなたはわたしの肉じゃがが食べたいと言う。
涼しげなブルーの江戸切子のコップを冷酒でそっと満たす。
肉じゃがを食べるといつもあなたはこれを欲しがるから。
「すごいね。僕が何を欲しがるのか分かるの?」そしていつも同じセリフを口にしながら、大げさに驚いた顔をして喜んでくれる。
そうすれば、わたしが微笑んで2杯目の冷酒を注ぎながら、「あなたのことなら何でも分かるわよ」と返すまでがお決まりで、わたしとあなたの台本に刻み込まれている。
もう何回繰り返しただろうか。
それでも飽きずにあなたはわたしの肉じゃがを褒めて、わたしはあなたの好きな冷酒を注ぐ。

心地よいメロディーのリフレインはずっと聴いていても飽きない。
もう音楽を再生しなくても、いつだってわたしの頭の中で流れを止めない小川のようにせせり流れているから。

「今日もきみの料理は美味しいね」
あなたはそう微笑むから、わたしは江戸切子のコップを取り出して、冷酒を傾けた。
けれど、身体に刻み込まれたように動くわたしの手を、あなたは止めた。
コップに注がれなかった冷酒がテーブルに溢れる。
「…どうしたの?今日は冷酒はいらないの?」
あなたの顔を見るけれど、霧にかかったようにその表情が見えない。
わたしはあなたの顔を見れば、あなたが何を考えているか分かるはずなのに。
「泣いているの?」
わたしの頭のスピーカーの調子は悪くなってしまったのかしら。
聞き慣れたあなたの声もくぐもって聞こえる。
「あなたのことなら何でも分かるわよ」
それでも、いつものあなたのセリフは聞こえずともわたしはそう呟くように返した。

目の前の肉じゃががホカホカと湯気を立てる。今日も美味しそうに出来た。
あなたのいつもの笑顔が見たくてあなたを呼びに立つ背後から、
「もうやめときなよ。もう…いないんだよ。」
突然、予定不調和なセリフが差し込まれる。
流れていた小川が突然、大きな石にせき止められたように、リフレインのメロディーがゲシュタルト崩壊して思い出せなくなる。
溢れて流れる。昨日の冷酒のように、流れてこぼれてしまう。
「あなたのことなら…何でも分かるわよ…」最後に覚えたセリフは裏切らずに口から溢れるのに。

彼女は毎晩、嬉しそうにこの店に足を踏み入れて決まったメニューを頼んだ。
肉じゃがと冷酒。
彼女はいつもお気に入りのブルーの江戸切子のコップを欲しがった。
そして、いつもうわ言を言いながら嬉しそうに冷酒を注ぐ。
初めは彼女にあまり触れないほうがいいと思っていた。客のプライバシーには触れてはならない。
けれど、日に日に増えていく冷酒と彼女の涙を見ていたら、つい彼女の手を止めてしまった。
もういない誰かに想いを馳せて苦しむ彼女が見ていられなかった。
最後に彼女が言った「あなたのことなら何でも分かるわよ」という言葉が頭をぐるぐるする。

あの日以来、わたしは彼女を見ていない。

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