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「AさせたいならBと言え」を読んで、大人向けの学びで汎用できるか考えてみた。
「AさせたいならBと言え~心を動かす言葉の原則~」岩下修(著)を読んだことがあるでしょか?
小学校教諭であった岩下氏が開発した、児童のこころを動かす「発問・指示」方法。
させたいこと(A)を直接指示しても子どもは動かない。
子どもが想起しやすい・興味喚起しやすいような表現(B)を
用いれば、子どもは目を輝かせ行動するようになる。
例えば、
「ちゃんとお鍋を洗って」
↓
「ここまで聞こえるようにゴシゴジこすって」
こう言い換えるだけで、子どもは面白がって洗い始める(らしい)
これを、社会人向け教育・大人に対してに汎用できるか?
と考えてみる。
私の考えでは、使える部分と、使えない部分があると思う。
使える部分というのは、
「直接言っても響かない」という点。
例えば、
「昇格にあたり、リーダーシップを身に付けるように」
「部下の話を聴くには〇〇すればよい」
等々、言っても聞きゃーしない。
直接言うのではなくて、相手の心が動くような、
そんな発問や問いかけをしてく、
というのは、大人教育にも通じるのではないかと感じました。
一方で、使えないと思ったのは、
この本は子どもへの「指示」について書かれている点。
指示、つまり、何らかの行動をさせる=命令の方法と言えます。
何らかの指示に従わせたいという状況において有効ということです。
大人教育においては、この発想はそぐわない。
と、私たちは思います。
仕事上、指示しないといけないことはもちろんありますが、
学びの領域では、
特に構成主義的な視点で取り組んでいる私たちには、
違和感を覚えます。
加えて、考えさせることについても書かれてはいますが、
あくまでAという到達点へ導きたいために、
あえてBという言葉をつかって、Aへと到達させるという考え方なのです。
“正解”があって、そこへ主体的に行きつくように促す。
これが、大人の学びとは大きく異なる点だと感じます。
特に昨今叫ばれているVUCA(ブーカ)の時代において、
これまでの正解では対応できないため、
新しく答えを創造していくことが求められています。
そういった視点では、“正解”Aがない状態では、
この法則は使えないということになります。
では、現代の社会人にはどんな学びが必要か?
教える側は何を教えるのか?
それは、「考える」こと、ではないでしょうか。
そもそも「考える」って何でしょう。
創造性・主体性には「考える」ことは不可欠ですが、
どのように考えることが、創造性や主体性に繋がるのでしょうか。
そういったことを、教える側は研究し、
大人も「考える」ことを理解しなおし、考え続ける必要があると思います。
パウロ・フレイレの言う、単に情報を知り詰め込むような「銀行型教育観」ではなく、
対話を活用して、省察を促し、知を構成していく「問題提起型学習」がこれからの時代に必要とされているのではないでしょうか。
目の前の業務を処理することだけの日々では、
頭を使っているようで、創造的には使われていないでしょう。
一人ひとりが、もっと自分自身の思考と向き合い、物事を多面的に、じっくりと捉え、考えていけるようになれば、人類の知はもっと創造的に伸長していくに違いない。
「考える」ことを考えるというと
哲学的な難しいことかと思われがちですが、
全然、もっと身近なことです。
日々の悩み、困りごと、そんなことが出発点。
例えば、
「私はなぜそう思うのか」
「何についてイラついているのか」
「なぜその感情になるのか」
そんな卑近なことから、自己理解が始まります。
自己理解は、自分の思考を理解することに他なりません。
自分が世の中を見ているのは、自分の眼鏡を通してみている、
その眼鏡が何色か、どんな形かを知る事で、
自分が外界をどのように捉えていたかを
初めて理解することができるのです。
答えは外にあるのではありません。
自分の内にあるのです。
そういった大人の学びを促すためには、
どのような発問をすればよいか。
これも、”答え”はないので、
日々、取り組み・考え続けていきたいと思います。