ビリヤニ【3】 北インドの伝統的ビリヤニ
インドで多様なビリヤニが存在するのは、何もヒンドゥー教徒用にカスタマイズされたり、もともとあった米料理をビリヤニ化したりというイレギュラーな進化によるものだけではない。イスラム教徒本来の、宮廷文化の拡がりと共に花開いていった「正統派」のビリヤニが各地で今も存在する。そしてそれらの地で生まれたビリヤニは、当然のことながらムガル帝国の地理的な勢力圏拡大にともなうもので、各地を治めたナワーブやニザームたちが築き上げた文化の結晶の一つともいえる。
前述のとおり、厳密な意味での「本物のビリヤニ」を求めるのならタイムマシンで当時のムガル宮廷に出かけなければならない。しかしそれが非現実的な願望である以上、なるべくオリジナルに近いものを求めたくなるのが人情だ。こうして私たちはビリヤニを求める旅に出る。
まずは個人的嗜好から。北インド、UP(ウッタル・プラデーシュ)州の州都ラクナウで食べるビリヤニが、全インド中で最も好きなビリヤニである。ラクナウの旧市街にはイドリース・ビリヤニ、ワヒード・ビリヤニ、ナウシジャーンといった渋い老舗があるが、どこで食べても味がしっかりしていて、とりわけ皿底に沈殿した油が美味い。油はスプーンでは物理的にすくいきれない。皿面のゆるやかなカーブに沿って柔らかな指の腹で拭うようになでなければ難しい。そうしていただくのが正しい、かどうかは知らないが、私はそうやっているし、周りを見てもそんな風に丁寧に食べている人は多い。そしてビリヤニにあわせてどうぞ、といわんばかりのコカコーラの200ml入りミニボトルがラクナウでは流通していて、油っこくなった口まわりをスカッと爽やかに洗い流してくれる。
ラクナウは13世紀から永らくムスリムの支配下に置かれてきたが、とりわけムガル時代に帝国から派遣されたペルシア出身の貴族サアーダト・アリー・ハーンが、派遣元のムガル帝国を裏切る形で独立建国したアワド王国時代が有名だ。有力な武将らの離反で弱体化するムガルの首都デリーとは対照的にアワドは繁栄し、芸術・文化が爛熟した。もちろん料理もそうで、この時代に発展した調理技法は「アワド料理」の名で今も広く知れ渡っている。ビリヤニもまた「アワド・ビリヤニ」と呼ばれ、その味を知るものなら誰しもゴクリと唾をのむ。ちなみにラクナウにはビリヤニのことを今でもプラオと呼ぶ向きがあるが、それはペルシア出身のナワーブ(太守)が代々支配していたことと関係があるのかもしれない。
続いて南インドのハイデラバードに飛びたい。ラクナウと並ぶ、もう一つのビリヤニの聖地である。ラクナウからハイデラバードまでは直行便で2時間。可能であればフライトに乗る直前ギリギリまでラクナウのアワド・ビリヤニを堪能し、着後すぐにハイデラバードのビリヤニ店に駆け込んでほしい。両者の違いが際立って感じられるからだ。
ハイデラバードのビリヤニがラクナウのそれと異なるのはまずそのボリューム感。圧倒的にハイデラバードの方がボリューミーなのだ。大きな容器にてんこ盛りでサーブされたビリヤニをプレートに移し替えて一口食べてみる。油っこさはさほど感じない。ライスは色と味の違う箇所が複数ブレンドされ、その米の食感を柔らかく煮込まれた肉と共に噛みしめる。周りの客たちは卓上に置かれたミルチー・カ・サーラン(青唐辛子とピーナッツ・ペーストの薬味汁)とダヒー・チャトニー(ヨーグルト系の薬味汁)をたっぷりとかけて手食している。それはあたかも南インドのミールスで、ライスにサンバルをかけているようでもある。確かにそうすることによって爽やかさが増し、小山のようにてんこ盛りだったビリヤニが気づくとなくなっているから不思議である。
ハイデラバードもまた独特のムスリム文化を持つ街である。ハイデラバードを含むデカンの地を支配下に治めた君主ニザームは、代を重ねるにしたがい周辺の王国やイギリスとの衝突の中で領土を拡大させていった。独立後、栄華を誇った商都ハイデラバードには当時のボンベイから多くのイラーニーの実業家が移り住んできた。やがて彼らはパラダイス・ビリヤニやシャー・ゴウシュ、シャーダーブといった店を作り、ビリヤニの街・ハイデラバードの名を一躍有名にしていく。それにしても、ラクナウとハイデラバード双方の街のビリヤニ発展の背景に、ペルシア=イランの影響が奇しくも共通しているのは興味深い。
このほか、ムガルの首都だったデリーや米食文化の本場コルカタなどにも独自に進化したビリヤニが存在する。これらの北インドのビリヤニは地域によりそれぞれが個性的だが、共通点もある。それはバスマティ米の使用である。アロマティックな独特の香りを持ち、きれいな曲線を描く長く美しい米こそがビリヤニにふさわしいとされてきた。だが一方、同じインドでありながら、このバスマティ米を使わないビリヤニ文化圏が存在する。それが次に紹介する南インドのビリヤニである。果たしてそれは「本物のビリヤニ」と呼び得る料理なのだろうか……。
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