ドラゴンタトゥーの女
四歳から長唄三味線を習い始めた。当時大ヒットしていた『帰って来いよ』の松村和子の三味線弾き語りがたまらなくかっこよかったからだ。毎日ほうきを三味線に見立て、真似することに熱中したが物足りず、三味線を習いたいと母に懇願した。
週に一度、三味線の先生が家に教えに来てくれることになった。
始めてみると三味線はそんな容易いものではなかった。四歳児の手は棹(さお)の先まで届かず、背後から先生に支えてもらわないとぐらぐらと不安定で、手を上下に滑らせ弦を押さえるなんて芸当はとても無理。『帰ってこいよ』は遥か遠く、帰るどころか出発すらできなかった。
習えばすぐジャカジャカとかき鳴らせるようになれると思っていた私は絶望してすぐ嫌になったが、懇願して習わせてもらった手前やめたいとは言えず、その後十一歳まで続けることになる。
ほかのお弟子さんたちに会えるのは年に二回、発表会のときだけだった。発表会はいつも和食料理屋の二階大広間で開かれた。お座敷の奥に舞台があり、そこで順々に日頃の成果を披露する。
子供は私ひとり、ほかは五十代以上のご婦人ばかりだったので大変可愛がられた。着物を着せてもらった私が舞台に正座し、先生に支えられながら辿々しく黒田節などを弾くと、百円玉をティッシュに包んだおひねりがたくさん飛んできた。お稽古は嫌いだったが、この年二回の発表会は楽しかった。
全員の演奏が終わると料理やお酒が運ばれ、宴会が始まる。私にも大人と同じご馳走が出された。賑やかに飲み食いし、そのうちカラオケも始まる。私は典型的な内弁慶で家族以外の人と接するのが大の苦手だったが、この宴会でおいしいものを食べながら先輩方のお話を聞くのは刺激的なのに不思議と落ち着いた。
そんな先輩方の中に、同じ辰年生まれだからと殊更可愛がってくれる、私のちょうど五まわり上の粋なおばさんがいた。
「ちょっとおいで、いいもん見せちゃる」
と手招きするので傍に座ると、おばさんは自分の着物の衿に左手をかけ、胸元を少し開いて見せた。そこには小指ほどの小さな龍が彫られていた。私は驚きと共に釘づけになり、自分の干支のしるしをいれるなんてかっこいい!と心動かされた反面、注射何本分の痛みだろう…と恐ろしくもあった。
これが、三味線にまつわる最も鮮明な記憶である。
七年も習ったはずなのに、今の私は三味線を弾くことも譜面を読むこともできない。習った期間がもっと短いそろばんは今も役立つほど頭に刻まれているのに、三味線の演奏についてはどういう訳か何ひとつ残っていない。残っているのは発表会後の宴会で初めて食べたタンシチューの味(洋食も美味しい和食屋だった!)や、初めてのカラオケで歌った『浪花節だよ人生は』(『帰って来いよ』ではなく!)や、初めて見た刺青など、三味線に関係のないことばかりだ。
今年は辰年。龍の刺青のおばさんがもしご存命なら百八歳。小さな龍は加齢に伴う水分減少でさらに小さくしぼんでいるかもしれない。
私もおばさんになった今、もう一度会いたかった。