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『裸の聖書』12. 未来を担保に過去をコントロールする -3

こんにちは、もんぱちです❣
情報戦争につき、必要な情報をできる限りお届けするため『裸の聖書』を翻訳して拡散しています。

わたしたちが生きている時代そのものが、旧約聖書の現代的な再読を促しているとビグリーノ氏は言います。
人為的に捏造された物語=聖書を通じた社会の完全な支配。
システムは過去を管理することに基づいており、過去の知識の管理を通じて現在を管理し、未来を計画するのです。そこで異を唱える者は当然厳しく排斥されます。自身の本の出版を皮切りにこのことを身を持って理解したビグリーノ氏の言葉はとても重要だと感じます。

「聖書を読むことだ。ありのままに。何も発明する必要はない。旧約聖書に書かれていることは、これ以上ないほど明確だ。神秘的で不可解な事実や出来事を呼び起こす必要などなく、単純明快に、そこにすべてがある。」

前回の記事はこちら↓↓↓

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未来を担保に過去をコントロールする -3

そしてわたしたちはようやくここまで来た:マウロ・ビグリーノがベストセラー作家となった聖書釈義の領域に、わたしたちはかなり直接的な形で足を踏み込んだのだ。
おそらく、わたしたちが生きている時代そのものが、旧約聖書の現代的な再読を促しているのだろう。
これら書物の中では、すべての最初に生まれた子ども(人間だけでなく、『不浄』とみなされる動物も)が同じレベルに置かれている:「子どもらはヤハウェのために確保されているが、金銭の捧げ物で贖うことができる。」
この場合、「人間の商品化は恐ろしいレベルに達している」とビグリーノは言う。
レビ記には、次のように書かれている。「主はモーセに言われた。『イスラエルの子らに告げて、こう言いなさい:もし人が誓いを果たしたいなら、誓いを立てた人々一人一人に対して、あなたが提示しなければならない価値は次のとおりである』」
つまりもし誰かが負債を負い、そのために神殿、つまり当時の『国有財産 』に身を捧げたとしたら、もし自分自身を贖いたいと望むなら、非常に正確な料金表に従って清算しなければならなかったことを意味する。
「20歳から60歳の男性の価値は銀50シェケルになる。」
肉体的に屈強な男性の自由は、それだけの価値があったのだ。
「女性の場合はその価値は30シェケルだ。」そして、「5歳から20歳の人であれば、男性の場合は20シェケル、女性の場合は10シェケルになる。」
子どもについてはどうだろうか?
「生後1カ月から5歳までの子どもの場合、男子の価値は銀5シェケル、女子は銀3シェケルとなる。」
高齢者に対する『評価の切り下げ』も不可避だった。しかしそこでも男女は明確に区別された:「60歳以上の場合、男性なら15シェケル、女性なら10シェケルである。」
つまり要約すると:健康で体力に恵まれた男性には50シェケルの『価値』があり、年老いた男性には15シェケルの『価値』しかないのである。
「これが商品化でないなら、何なのか教えてほしい。これは、商品として扱われ、取引される人々に与えられる特定の金銭的価値だ。」
しかし、もちろん、聖書の他の箇所では、ヤハウェは別のことを言っているようだ、と言われるだろう。「確かにそう思われるかもしれないが、ヤハウェはいつも、自分の民であるイスラエル人についてそう言うのであって、他の人類と明確に区別していたのだ。」とビグリーノは明確に述べた。
いずれにせよ、申命記ではこのことは議論の余地がない。また、旧約聖書から引用された他の書物では、いわゆる『神聖な』品物、つまりヤハウェのためだけに確保された品物には、特定の価値さえ与えられている。
『レビ記』の5章を思い出してほしい。
「もし魂が主の聖なるものに対して不義を行い、無知による罪を犯したならば、その者はその不義の償いをしなければならない;聖所のシェケルにならい、銀数シェケル相当の傷のない雄羊を群れの中から見積り、不義の供え物として主にささげなければならない。そして、聖なるものに対して行った罪の為に償いをし、その5分の1を加えなければならない。」と書いてある。
ようするに、ヤハウェのために用意された品物から何かを取った場合、その価値に20%を加えたものを返さなければならない。
「つまり、『神聖なもの』は完全に商品化され、付加価値税が加えられるのだ。」
この付加価値税の前身は、レビ記の22章に再び登場する。
『不注意で神聖なものを食べてしまった者は、その神聖なものの価値に5分の1を加え祭司に返済しなければならない。』

ここでもまた、『神聖なもの』には20%の価値が付加されている。
そしてそれは、まさに全てのものに当てはまるとビグリーノは付け加える、住居さえもだ!
『レビ記』第27章によれば、『人が自分の家を主に奉献するとき』、おそらく神殿の財産(税務署員)に負債を支払わなければならなかったためであろうが、「祭司がそれを評価し、その状態が良くても悪くても、祭司の評価を受け入れなければならない。奉献者が自分の家を償還したい場合は、評価額の5分の1を加えれば、その家は彼のものとなる。」
ここでもまた、至る所で現れる20%が不動産取引に適用されているのがわかる。
お金は議論の余地のない価値である。
すべてのものに値段がある。人も同様だ。一人の人間にどれだけの価値があるだろうか?男性で、健康で、働き、戦える年齢であれば、せいぜい銀貨50シェケルだ。

「これら全てから、システムが古代(聖書)から始まり、ルーモアのような重要な政治家一族によって理論化されたことを理解することに繋がる」とビグリーノは要約する。
では、サンチュニアトンによって明らかにされ、ビュブロスのフィロンやカイザリアの司教エウセビオスによって取り上げられた啓示についてはどうだろうか?
特定の人為的に捏造された物語を通じた社会の完全な支配:これは、紀元前1200年の作家の言葉である。
少なくともルドルフ・シュタイナーや、ラジオ・マリアのディレクターであるヴィガノ司教、ルーモア、フィロンやエウセビオスに至るまで、全く異なる人々の様々な声によれば、「何世紀にもわたって存続してきたシステムが現れつつあるようだ。」
「このシステムは過去を管理することに基づいており、過去の知識の管理を通じて現在を管理し、未来を計画する。」
それだけではない。
「過去の知識とそれを管理することにより、わたしは自らの無謬性を保証し、記録する。」それに異を唱える者がいれば、厳しく叱責されるだろう。
ビグリーノは、2010年初頭の処女作の出版を皮切りに、身を持ってこのことを理解した。
そのタイトルは雄弁だった:『聖書は神について語らない』、『聖書に登場する宇宙人の神』、『聖書に天地創造はない』、『聖書は聖典ではない』。
そして、公式見解の無謬性にあえて異議を唱える者は、深刻な問題に直面することになる:「たとえよく研究された証拠や文書があったとしても、それに疑問を投げかけようとする者は、あらゆる手段で排斥され、(当然のことながら)攻撃される。というのも、無謬性はまさに過去の知識、少なくともその本質において不変でなければならない、という管理の上に成り立っているからである。」
ここではっきりさせておこう:マウロ・ビグリーノはグレート・リセットをまったく扱っていない。
彼は単にいくつかの質問を投げかけている。そして、少なくとも2,500年前に書かれた書物の中に、可能性のある答えを探している。
これこそが彼をこれほど興味深い作家にしている理由であり、今や非常に人氣のある作家でもある:ウェブ上では30万件以上彼についての言及がある。
それほど世間を騒がせるなんて、いったい何をしたのか?
「何もしていない、本当に。実際、世界で最も愚かな『商い』をしているように感じることがある。」
それはいったいどういうこと?
「聖書を読むことだ。ありのままに。何も発明する必要はない。旧約聖書に書かれていることは、これ以上ないほど明確だ。神秘的で不可解な事実や出来事を呼び起こす必要などなく、単純明快に、そこにすべてがある。」
これが、一部の人にとって、聖書が実際に語っていることを聞くのがとても危険だと考える理由なのだろうか?



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始まり:すべては創世記の翻訳から始まった -1 へ続く
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「裸の聖書」マウロ・ビグリーノ氏関連リンク
グラハム・ハンコック氏との対談動画と、そのスクリプトを記事にしたEriさんのサブスタ記事です。    ↓↓↓


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