サルトル『嘔吐』

 わたしたちのうち何人かは、自分がやがて死ぬことに気付いて震えが止まらなくなったり、今生きていることのあまりの居心地の悪さに耐えられなくなったりする。そうした瞬間瞬間というのは、物語――もとのフランス語を知らないけれど、ひょっとすると”お話”と言った方が当を得るだろうか――に徹底して抗う。というか、物語がそういった感覚からわたしたちを守っているのだろうけれど。

 「あなたの中のインナーチャイルドを抱きしめてあげましょう」みたいなのを見るとストレートに○すぞみたいな気持ちになるし、存在と非存在を比較してメランコリーに沈んでみるのもちっとも好きではないので、こういうところで「いいぞいいぞ」と思う。

世界は前にも後ろにも、至るところに現存していた。世界以前には、何もなかった。何一つなかった。世界が存在しなかったかもしれないような瞬間はなかったのだ。私を苛立たせるのは、まさにそのことだった。もちろん、このどろどろした形も定まらないものが存在するということに、何の理由もありはしなかった。しかし、それが存在しないことは不可能だった。それは考えられなかった。無を想像するためには、すでにそこに、世界の真っ只中にいて、目をかっと見開いて生きていることが必要だった。無は私の頭のなかにある一つの観念にすぎなかった。この広大無辺の世界に漂う一つの存在する観念に過ぎなかった。この無は、存在以前にやって来たのではない。それは他のものと同じ一つの存在であり、多くの他の存在の後で現れた存在だった。(223-24, 傍点略)

 自分をむかむかさせるような、あるいは恐怖させるような空気がときに集合的に味わわれるものである、というところに、これがしたためられえた条件みたいなのが見える気がする。

 ところでその吐き気というものは、苛立ちや憂鬱といった形でいくぶん変奏されている。こういうのを何人かのひとはマインドフルネスで解決するんだろう。

ジャン・ポール・サルトル『嘔吐[新訳]』鈴木道彦訳、人文書院、2010年

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