ギュンター・グラス『猫と鼠』、あるいは全ての魔法について

 小説を褒めるときにすぐ「マジカルだ」と言ってしまうのだが、それは言葉がまさに魔法だからだ。魔法はありもしないものを、ありえないものごとを目の前にたちまち出現させる。全ての小説が共通してできることだ。しかしとりわけその魔法に自覚的な種類の小説があって、それはマジックリアリズムと呼ばれたりメタフィクションと呼ばれたりするだろう。

 ギュンター・グラスの『猫と鼠』は決して派手ではないがそうした小説だ。

ところで、きみの鼠をその一匹の猫とすべての猫の眼に触れさせたぼくは、今書かねばならぬ。たとえぼくたち二人が虚構された人間であろうと、ぜひとも書かねばならぬ。ぼくたちをでっち上げたやつは、職業柄、ぼくに強いるのだ、きみの喉仏をくり返し手に取り、それが勝つか負けるかするのを見たどんな場所へでもそれを連れて行くようにと。(4)

といった調子で、かれらが虚構の存在であることを思い出させ、語り手――あるいは語られている語り手は確信や憶測や起こらなかったことやかもしれなかったことを配し、一度「言った」と言ったことを2行後に「こう言って立ち去るべきだったのだ」と翻す。そうやって何度も突きつけられることは決して虚構が虚構に「すぎない」ということではなくて、むしろだからこそ読む者は巨大な喉仏という鼠に猫をけしかけた少年とその鼠の主、いや鼠、そして彼がいる少年時代を戦争中に過ごしたことの哀切さをいっそう強く感じるのだし(なにしろ存在しないものなのだから、存在するものよりもつよく哀惜できる、たぶん)、だからこそそれは単に虚構であるのではなくて魔法だ。マジカルなものはコミカルなもののような対象との距離を発生させない。たとえ語り手が文法をもった魔法が役に立たないと言っているとしてもだ。

たしかに白い紙の上に芸を披露することは楽しいことだ――しかし、白い雲、そよ風、正確に入港する快速艇、ギリシア劇の合唱隊の役をするかもめの編隊はぼくにとってなんの役に立つだろう。文法をもった魔法なんて、すべてなんの役にも立たぬ。(119)

 あらすじは書かないし書かない方がいい。なぜなら筋というものはひとつのものが全てであるかもしれないという魔法をなみしてしまうから。じっさい、「そっくりそのままのことなどありはしない」(61)。たとえばこんな風に。

また彼はいぜんとしてたった一人だけ、けずり取った糞をけっして食べなかった。一方ぼくたちは、糞がそこにあるというわけで、貝殻の破片のような石灰の塊を噛み、ねばねばと泡立ってくると船べりから外へ吐き出した。それはなんの味もしなかったか、あるいは石膏か魚粉か、思い浮かべることのできるすべての味がした。たとえば幸福とか少女とか、または愛する神の味である。(6)

 あるいは偉大なヨアヒム・マールケの房飾りは、「それ」でありながらその種のものすべてとして旅をする。

それを目立つように首のところに結んで、学校へ持ってきたのだった。
十日後にはそれは呉服屋に姿を見せ、まだ恥ずかしそうにあやふやな格好をして、勘定場のそばのボール箱の中にあったが、まもなく、そしてこれが重要なことなのだが、配給券不要と書かれて、麗々しくショウウィンドウに飾られ、さらには商売と無関係に、ラングフールから、東ドイツと北ドイツを通って勝利の行進を開始したのであった、(52)

 そして始めにも引用したように、けしかけられた猫と鼠は永遠のものであり、あからさまに男性器の象徴として扱われるその喉仏は永遠でありそして決してひとつではない(祭壇はどこにでも築けるのだから)聖処女マリアに捧げられている。

彼は髪を真ん中から分け、長靴をはき、永遠の猫を永遠の鼠から拒けるために、その時どきによってあれやこれやを首からぶらさげて、マリアの祭壇に膝まずいた、(27)

 少年時代を持たず憧れだけを膨れ上がらせた者として、わたしは少年たちの聖母への、あるいは少年どうしのある種の愛を描いたものにもしかすると過剰に好意的なのかもしれないし美的に感じすぎているのかもしれないが、魔法はテクストの操作だけで成立するものではないのだとも思う。

ギュンター・グラス『猫と鼠』高本研一訳、集英社、1968年。
(Günter Grass, Katz und Maus. Hermann Luchterhand Verlag GmbH, 1961)

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