Chim↑Pom・阿部謙一編『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』
表現とその倫理性に関する言説状況が今と13年前とではまるで違ったのだとしみじみ感じる。
Chim↑Pomが広島の空に飛行機を飛ばして飛行機雲で「ピカッ」という字を描き、騒動になり、2ちゃんが祭りになり、謝罪会見をし、原爆ドームと「ピカッ」を撮った映像を作品として発表する予定だった展覧会は自粛という形になった。そのような顛末にまつわる文章を批評家やアーティストやジャーナリストが論じた文章と、被爆者団体との対談などを収めた本である。
初めてこの行為について知ったとき「ヤバ(悪い意味で)」と思い、その後色々を読んで「なるほど」と思った。
あいトリよりもろくでなし子よりも、そして萌え絵に関する批判がメジャーになるよりも多分、前の話だ。ここで俎上に乗っているのが発表された作品ではなく制作過程での行為であるためか、「表現の自由」というコンセプトに触れているのは、この件を欧米に紹介するとしたら…という視点で書かれたイーデン・コーキル氏の文章だけだったと思う。
この、作品は出していない状態でご意見を募るといった本の作り方(それによって「まあまだ作品を見ていないわけだから」と矛先を反らすことになる)は田中功起が批判しており、もっともだと思う。「ピカッ」に対する批判も一番もっともだと思う。
実際多くの寄稿者は「まあまあ、まだ作品がありませんから」といった態度に終始し、あるいは部外者的で上から目線で(上なのだろうけど)お行儀のよい「うーん、でもやっぱ事前の説得は要ったっしょ」から「むしろ○○って書けばよかったんじゃない?」っていう後出しジャンケン、果ては「Chim↑Pomって名前だと損するし、ポチョムキン↓とかどう?」みたいな言語を絶する寒さのアドバイスなんかで読んでも仕方ない。
いとうせいこうがコメントで「『プライベート・ライアン』の撮影風景を観ただけでは、それが戦争をどう描いているかを言うことが出来ないのと似ている」と書いているが(p.104)、似てなんかいない。「ピカッ」はそれを観たほとんどの人に何も知らされず、突如として平穏な快晴の、他でもない広島の空に現れたのだから。
Chim↑Pomの行為に関するまともな批評を書いているのは椹木野衣の「かつてエノラ・ゲイから見えた「空」―Chim↑Pomの「ピカッ」と回帰する原爆投下者たちの窓」 くらいだろうか。「ピカッ」は原爆の表象であるよりも、それを書けるという平和な現在のそれなのであり、しかしその平和は日本全体がアメリカ化すること=原爆の加害者の側に立つこと=日常生活の延長であり一方的に安全な空から、原爆を落とされる側への想像力を一切欠いた状態である。Chim↑Pomの行為は戦勝国による落書きみたいなものを21世紀になって敗戦国の側から広島の空に書き直すことができるくらい、日本が平和=アメリカ化されたことを明らかにしてしまった、と椹木は論じる。
もう一つ面白かったのが、少し触れたけれど被爆者団体とChim↑Pomメンバーとの対談である。この時点で、被爆者側にも「ピカッ」に大いに否定的な人々が確かに存在することが触れられる一方で、Chim↑Pomを応援するようになった者らは、自分たちの平和運動黎明期のゲリラ性、反体制性をお騒がせアート集団の行為に重ね合わせている。
意図と行為、ステートメントと作品、トラウマと当事者性、といった問題系に答えが出るようなことはないのだろうけど、「作品を観てから話しましょう」も「議論を喚起するのが大事(フラットな議論が必要)」も「怒ってる当事者もいるけど私たちは」というのも多分今のネット空間ならボコボコだと思って、とにもかくにも隔世の感。
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