高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』

 何も葬り去ってはいない。厚みや深みといったものへの拒絶には、宇能鴻一郎みたいな韜晦がある。それは居心地のいいノスタルジアをもたらす。「日本のすばらしい戦争」(人名)を待ち受けていることになっている「深遠」は決して空虚を意味しない。

 左の睾丸を二度、右の睾丸を一度握るのが、「ジョン・レノン対火星人」という意味のサインである。その行為の並びがサインであることも分からないし、そのサインが示す内容も結局何のことか分からない。これはそういう小説である。

 「わたしは衰退しつつある産業の労働者だ、と言うこともできる。ポルノグラフィーの寿命はよくもって今世紀一杯ぐらいだろう。」と19世紀小説に抗うこの小説の書き手であり、ポルノ作家であるらしい語り手は述べる。この小説に感じるノスタルジアがあるとすればそれは、私たちがもう持っていないモラトリアムに対するそれなのではないかと思う。

 今ポルノとモラトリアムを重ねて話している。どのように、とはっきり言えないのだが、そのときに原田宗典の『十九、二十』を思い出す。たしか大学にあまり行っていない、20歳になろうとする主人公がどういうわけか(忘れた)ポルノ雑誌の会社と関わるようになって、そこの社員の子供みたいに小柄な女性とセックスしたり彼女に振られたり、確かろくでなしの父親が下宿に来たりする、そういう結構ストレートなcoming-of-age小説だった。

 そんな風に不必要にとどまれる時間や場所(ポルノは不必要にとどまれる時間なのかもしれない)はもう遠いものだ。私だけでは多分ないと思うのだが、モラトリアムと呼ばれうるような状況を満たすのはもっと非常にはっきりとした焦燥だったと思う。

 この小説は別に何も葬り去らず、死も、人間の空虚も、あらゆる先行テクストも茶化していけて、ブンガク性の破壊ごっこを小説を書くことによって遊ぶ。でもそんな時間も、死体に取り憑かれた人が本物の死体になる頃には終わってしまう。いつまでも読んでいたかった。


講談社文芸文庫のKindle版で読みました。

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