リチャード・ライト『ブラック・ボーイ』(野崎孝訳)
南北戦争が終わったのが1865年。奴隷は解放されたものの、その後南部ではジム・クロウ法が制定され、白人による黒人のリンチや殺害が横行し、口の利き方ひとつで半殺しにされる。そういう状況が20世紀に数十年足をつっこんだアメリカ南部では続いていた。
1908年に生まれたライトの自伝的小説である『ブラック・ボーイ』は、もちろんそのような歴史的、社会的な記録として読むこともできるし、多分まずはそう読んでいいのだと思う。解説に書いてあったことだけれど、これはある南部の黒人が自らの経験を語ることがすなわち文学的な衝撃として受け止められた時期の作品だ。(時期、というのはライトの作家生活の中の時期でも、文学シーンの中のある時期でもある)。作者と同名の主人公であり語り手であるリチャードが経験する苦難は人種差別にとどまらないが、それと不可分でもない。父親の蒸発にともなう極度の貧困、母親が若くから繰り返す脳卒中の発作、厳格なセブンスデー・アドベンチストである祖母によるしつけといったものにより、リチャードは同じ地域の黒人の子供達と比べても食事や教育といったものが不十分ななか育つ。
父親が姿を消したあと、働きに出た母親を待つ間、6歳の少年は暇つぶしに酒場に出入りするようになる。そこで酔っ払った大人達に、意味も分からないまま卑語の数々を覚えさせられ、酒を飲まされ、男に教え込まれた言葉を別の女の客の耳元で囁くと小銭がもらえるといった生活を送る。暫くして母親から酒場への出入りは禁じられるのだが、このとき覚えた言葉が何年も経ってから度々滑り出て災いすることになる。なかでも印象的なのが、次の場面だ。
リチャードは風呂代わりの盥で祖母に体を洗ってもらっている。祖母のタオルがお尻の穴を擦ったとき、えもいわれぬ心地になった彼は「そこに接吻してくんな」と口を滑らしてしまうのだ。祖母をはじめ、家族全員が大激怒する。どうして怒られるのか分からないまま濡れたタオルで折檻され、祖父は銃まで持ち出してくる。
肛門性愛を道徳的な大罪とする感覚を持たないであろう多くの現代の読者にとって、そしておそらく、過剰に厳格な家庭としての描写を読んでいく同時代の読者にとっても、この場面は滑稽にうつるだろう。自分が口にしていることの意味を知らないことや、ナンセンスな大激怒といったいくつかの層の乖離には笑いが滑り込みうる。(翻訳の妙によるところが大きいかもしれない、とも思うが)。
一方でこの出来事は貧困下の黒人の子供が置かれざるをえなかった状況、白人からの暴力と並行する家庭内での暴力の深刻さを明るみに出すのだし、むしろ極端な滑稽さにおいて事態の理不尽が強調されるこのような作りには悲喜劇の要素がある。小遣い稼ぎのために中身を知らずに新聞を売って回っていたら、実はそれがKKKのプロパガンダ誌だったというエピソードには、笑えるところが少しもないのだが。
リチャードが苦労するのは、周囲の黒人たちが身につけている差別への適応的なふるまい、人間的に扱われることを完全に諦めた態度を理解することも身につけることも出来ないでいるからだ。不当な扱いに抗議しない、疑問を持っても指摘しない、口先では愛想よくしてちゃっかり盗みを働くといったことが彼にはできず、社会の規範や暗黙のルールに対して違和感を抱き続ける。理知と優れた観察眼と一体であるその不適応が引き起こすトラブル、人々の不可解な言動に対する疑いや観察といったものの連なりがこの小説を構成する。古今東西の多くの作品が様々な形である人物とそれを取り巻く世界とのズレに駆動されるように、それは個人史の記録を小説たらしめる中心的な装置なのだろう。
彼が小説に出会う一連の場面はとりわけ感動的だ。当時南部の黒人は図書館の利用を禁じられていたし、小説を書くことは周囲からは嘘、役に立たない作り話、あるいはナンセンスとして蔑まれていた。しかし、協力的な北部の白人との出会いを経て、図書館の本へのアクセスを得、セオドア・ドライサーやシャーウッド・アンダーソンといった作家の小説を読みながらリチャードは人間への洞察を深め、誰かに奪われることのない内面の存在を覚知し、人生の可能性を垣間見る。それは遡及的に、この作品がいかなる意図において書かれえたのかを説明しもするだろう。
本を返してしまったので、原文から引用する。
I read Dreiser's _Jennie Gerhardt_ and _Sister Carrie_ and they revived in me a vivid sense of my mother's suffering; I was overwhelmed. I grew silent, wondering about the life around me. It would have been impossible for me to have told anyone what I derived from these novels, for it was nothing less than a sense of life itself. All my life had shaped me for the realism, the naturalism of the modern novel, and I could not read enough of them.
Steeped in new moods and ideas, I bought a ream of paper and tried to write; but nothing would come, or what did come was flat beyond telling. I discovered that more than desire and feeling were necessary to write and I dropped the idea. Yet I still wonder how it was possible to know people sufficiently to write about them? Could I ever learn about life and people? To me, with my vast ignorance, my Jim Crow station in life, it seemed a task impossible of achievement. I now knew what being a Negro meant. I could endure the hunger. I had learned to live with hate. But to feel that there were feelings denied me, that the very breath of life itself was beyond my reach that more than anything else hurt, wounded me. I had a new hunger. (pp. 219-20)
このようにして惨めな立場に身を落とすことを拒み続けたリチャードは、リアリズムや自然主義文学によって開かれた世界を胸に、とうとう北部への脱出に踏み切る。シカゴに辿り着いた彼のその後が容易いものでなかったことはライトの伝記的事実が語ってはいるが、未だ世界が訣別できていない負の歴史と文学がいかに切り結んできたかという、これは記念碑的な作品である。
リチャード・ライト『ブラック・ボーイ』上下 野崎孝訳、岩波文庫
Richard Wright, _Black Boy: A Record of Childhood and Youth_. The World Publishing company, 1947.
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