Herman Melville, _Pierre; or, the Ambiguities_

 主要人物がみんな昔の二人称単数代名詞である"thou"で喋るのが面白く見えて仕方ないのだが、よくよく読むと身分のよい人同士の会話や、下の人が目上に話すときは"thou"で、上から下へは"you"が使われているっぽい。さらに、自問するときは"you"、母親と息子が割と事務的っぽい話をするときは"you"になっていたりと、割と繊細に使い分けられている感じがある。

 しかしwikipediaの"thou"の項目を見てみると、17世紀に標準的な英語ではthouの使用は激減し、(おそらく他の欧州言語と同じように)もともと二人称複数の代名詞であった"you"がより改まった二人称単数として使われるようになったという(メモ:この使い分けをT/V distinctionと呼ぶ)。シェイクスピアもある程度この区別をしているとか。が、その後、古風な語であるthouの使用は儀礼的で、格式張った印象を与える方向に反転するのだそうだ。

 ということは、メルヴィルのthouは壮麗な感じを作り込むために使われていて、それがちょっと結構面白く見えるのも間違っていない気がするし、この"thou"の反転可能性が、この作品の根幹である両義性というテーマの一つの乗り物としてあるのだ……なんていうのは私が学校の発表でよくやった類のこじつけなのでありますが。

 この悲劇の担い手であるピエールは父、そして神への不信を深めていくのだが、そこにはひとつ、表象という項が介在しているように思う。かなり昔に亡くなった父親の肖像画を眺めてたいそう悩むのだけれど、それは肖像というものが描かれた人の決定的な何かを写し取ったものであるはずだ、あるいはひょっとすると全くそんなことはないのではないか、という葛藤だ。ワイルドは『ドリアン・グレイ』でそれを完全に信の方に振ってしまうことで耽美的な(別)世界を成立させているし、今の私たちは、端からそういうことは信じていない(ことになっていると思う)。教科書的な記述をするならば、それはメルヴィル自身の懐疑であり、時代の流れでもあった。言葉巧みな主人公の書く小説が結局出版社から拒絶されることや、次の「バートルビー」における行き先のない手紙のことを考えると、メルヴィル自身のキャリアにおける困難以上に、小説という形式に対する不信も兆していたのではないかと思ったりもする。

 やっぱりでもメルヴィルが異常に面白いと思うのは、ここまで思索的で悲劇的な小説の途中で突然語り手が出てきて「普通物語ってのはこういう風に進むもんだけど好き勝手書いちゃうんだもんね~」みたいなことを言い出したりするところなのだが。

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