フラナリー・オコナー『すべて上昇するものは一点に集まる』~親がネトウヨの私たちのために

 絶対望ましい受け取り方じゃないんだけど、体の半分が抱腹絶倒してもう半分が強めのマッサージを受けているときみたいにアー、アー、って感じになる。抑圧されたものの回帰やダブル/分身の恐怖を扱う正当派ゴシック小説であり、どちらかといえば三文ホラーに近いびっくり恐怖おぞまし暴力シーンは21世紀の読者にとって笑い抜きで読みづらいところがある。

 一方でそこに描かれる社会状況や人物像は今の日本で生まれ育った私たちにとっても極めてアクチュアルなものとして読める。とりわけ世代間での価値観のギャップや親より豊かになりそうにないこと、経済的な格差なんかをひしひし感じている人間にとって。

 オコナーの人間に対する視線は徹底して意地悪だ。例えばこの短編集の表題作である「すべて上昇するものは一点に集まる」。母親と息子がバスに乗る話だが、大学を出たものの仕事に就けていない青年Julianは、教育を受けて完全に(!)リベラルな価値観を身につけたと自負しており、先祖の大きな家を懐かしがり黒人に対して露骨に差別的な母親のことを苦々しく思っている。

 ここで描かれる差別、というのが極めて悪意に欠けるもので、そういうのを聞かされるときの、黙って聞いているわけにはいかないがちゃんと批判するにも体力が要る、お母さんのこと嫌いなわけじゃないんだけどそれは全然容認できない、と溜まっていく鬱憤というのはバチバチに共感ができる。

 しかし共感しながら読んでいると雲行きが怪しくなってくる。Julianは仕事ができてないことや、おじいちゃんの屋敷に対してたしかに哀惜の感情を持っていることを受け入れられておらず、自分のリベラルな価値観をよりどころにするあまり、バスにたまたま乗り合わせた黒人男性の横に座って煙草のやりとりなんかをして黒人と対等な信頼関係を築ける自分になろうとよくない方向に張り切ってしまったりするのだ。

 その男性が下車して次に乗ってきたのは黒人の母子で、黒人の子供をやたらにかわいがるJulianの母親はその子にお小遣いを押し付けようとし、Julianの必死の制止を振り切って小銭を渡してしまう。それに激怒した母親に彼女はぶん殴られて大怪我を負うのだが、当然の報いだと思って喜んでいるJulianは「ざまあ!ざまあ!」とはしゃいだのち、しばらくしてから母の容態の深刻さに気づいて「ママー!!」となる。

 人には人の独善性があり、どのような立場の人間の視点で語られるかは様々なのだが、このノリは概ね共通している。これが楽しい人には絶対に楽しい小説集だ。おじいちゃんと孫娘が野外で死闘を繰り広げる"A View of the Woods"とかも腹がよじれるほど面白い。

 ところで黒人の子供にお金をあげるという行為の侮蔑性が分かるようで分かんないな、と思っているときに、車椅子ユーザーの人から、お店に入ろうとしたら物乞いだと思われてお金を渡されて追い返されたことがある、という話を聞いてすっと腑に落ちた。集団的な力関係の差がないときや同じ集団とみなせる子供に対して飴ちゃんをあげるというのとは全然違うということを直感的に理解するには、やっぱり奴隷解放後の南部と私の状況は異なる。

 直感のしづらさでいうと、信仰の問題がある。オコナーは敬虔かつ知的なカトリック教徒として、そうでない大多数の読者に向けて書いており、自らの作品を"Christian realism"と位置づける。キリスト教者にとっては唯一大文字のリアリティしか存在しない(○○リアリズム、などと分類できない)が、誰もが神を信じない世界で学術的な分類をせざるをえないという留保つきで。

 この点を考えると、彼女が描く暴力や衝撃の啓示的な性質が徐々に見えてくる。といっても信仰即ち救済オッケーといった単純な形ではない。オコナーの神学者的な側面についてはお勉強してから…ということになるのだが、一方でそのような知識を欠いていてもかなり"くる"ものが書かれていること自体、彼女の作品がクリスチャン・リアリズムといえる所以なのかもしれない。


Flannery O'Connor _Everything That Rises Must Converge_ (1956) Kindle ed.
Maria Popova "Flannery O’Connor on Dogma, Belief, and the Difference Between Religion and Faith"
https://www.brainpickings.org/2014/05/15/flannery-o-connor-letters-religion-faith/

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