酩酊の文体――吉田健一『酒宴/残光』
酩酊感を引き起こす文章というのがあり、実際に酩酊するとか、知覚に負荷をかけて読むといっそう効き目のある文章がある。たとえば折口信夫の『死者の書』を読んだときはすこしく酔っ払っていて、それだけに内容はあまり覚えていないが、なかばトランス状態をもたらすようなめくるめく世界が展開されたのだった。
吉田健一の短編集は、格闘技の大会会場で、選手の入場や煽りV上映中の大音響と刻々と変化する光の演出の下で読んで、ふさわしいと思った。飲酒に飲酒を重ねる話……「残光」は灘の酒造会社の技師と東京で知り合った語り手が、「よし田」で飲み、八重洲口で飲み、灘まで行って酒蔵見学をすることになってまた飲み、飲んでいるうちに相手や酒造会社の社員たちが酒造りのタンクに化け、飲んで飲んで飲み続けているうちに自分は神戸から六甲山まで届く大蛇になっているという無茶もいいところのマジックリアリズム。
こうなるとほとんどポルノの論理であるし、そういえば彼は(この短篇よりは後のことだが)『ファニー・ヒル』を高く評価し、翻訳もしていたのだった。ここには不安ということがなくて、酒が身の回りじゅうから尽きる心配も、急性アルコール中毒でおだぶつになる気遣いもない。ただ周りの世界が、はたから見ればどんどんおかしくなっていくにすぎない。
実際どうだか知らないが、酔っ払いの演技がうまい役者はいない、といったことを昔父が言っていた。それでは酔っ払いの文体とはどんなもので、実際そこまで酔っ払うことのできない死すべき人間をどこに連れて行ってくれるのだろう。
カクテルパーティでの会話は二日酔いの朝にはすっかり忘れてしまって、そうでなくてもどうしてあんなに笑いこけていたのかまるで分からない、といった性質のものであると、これもまた飲酒ポルノ幽霊話である「百鬼の会」に書いている。そうだよな。記憶がなくなるんでもなく、味だけがどこかに行ってしまうような、次元の食い違い、世界の混乱、みたいなことが起こる。吉田健一はそれを小説でもしているのだと思う。
幽霊話、と言った。化けて出るのはなにも、恨みを残して死んだ兵士だとかに限らない。
と考えながら歩いていたら、よくある怪談話と同じように、壁から天井まで美女に埋め尽くされ、幻の銘酒を次々出してくる店で豪遊し、後日探してもそれはどこにも見つからないのだった。
美食小説はいつでも、そこになくて、もうどこにもなくて、もしかしたら始めからなかったものへの狂おしい欲求を駆り立てる、ほとんどそれだけのためにある。それと同じように、過去と不在と幻想と憧憬とを召喚するために、何も分からならないように、飲まなければいけない。なぜと言って、現在は耐えがたい退屈だから。
これから先たって行く時間、自分が過ごさなければいけない時間、その退屈に付き合って行くほかない。むやみに何かと思い悩むのでも、自己実現に向けて駆り立てられるのでもなく、ただ何かいい気持ちになったような、そこに何かあるような気がして、でもよく分からないままの後味を重ねて過ごしていくこと、そうして何か聞かれたら「ま、あんなものでしょう。何だってそうじゃないですか、」と答えて、そうして「流れ」の河野は、自分が今幸福なのだと悟る。
私たちの現在がそうまで暢気に過ごせるものでないにしても、しかし若さに追われることの別のあり方を、少しだけ酔って思った。
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