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酩酊の文体――吉田健一『酒宴/残光』

酩酊感を引き起こす文章というのがあり、実際に酩酊するとか、知覚に負荷をかけて読むといっそう効き目のある文章がある。たとえば折口信夫の『死者の書』を読んだときはすこしく酔っ払っていて、それだけに内容はあまり覚えていないが、なかばトランス状態をもたらすようなめくるめく世界が展開されたのだった。

吉田健一の短編集は、格闘技の大会会場で、選手の入場や煽りV上映中の大音響と刻々と変化する光の演出の下で読んで、ふさわしいと思った。飲酒に飲酒を重ねる話……「残光」は灘の酒造会社の技師と東京で知り合った語り手が、「よし田」で飲み、八重洲口で飲み、灘まで行って酒蔵見学をすることになってまた飲み、飲んでいるうちに相手や酒造会社の社員たちが酒造りのタンクに化け、飲んで飲んで飲み続けているうちに自分は神戸から六甲山まで届く大蛇になっているという無茶もいいところのマジックリアリズム。

本当を言うと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止まっていればいいのである。庭の石が朝日を浴びているのを眺めて飲み、それが真昼の太陽に変って少し縁側から中に入って暑さを避け、やがて日がかげって庭が夕方の色の中に沈み、月が出て、再び縁側に戻って月に照らされた庭に向って飲み、そうこうしているうちに、盃を上げた拍子に空が白み掛っているのに気付き、又庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と相手に言うのが、酒を飲むということであるのを酒飲みは皆忘れ兼ねている。(p. 126)

こうなるとほとんどポルノの論理であるし、そういえば彼は(この短篇よりは後のことだが)『ファニー・ヒル』を高く評価し、翻訳もしていたのだった。ここには不安ということがなくて、酒が身の回りじゅうから尽きる心配も、急性アルコール中毒でおだぶつになる気遣いもない。ただ周りの世界が、はたから見ればどんどんおかしくなっていくにすぎない。

実際どうだか知らないが、酔っ払いの演技がうまい役者はいない、といったことを昔父が言っていた。それでは酔っ払いの文体とはどんなもので、実際そこまで酔っ払うことのできない死すべき人間をどこに連れて行ってくれるのだろう。

カクテルパーティでの会話は二日酔いの朝にはすっかり忘れてしまって、そうでなくてもどうしてあんなに笑いこけていたのかまるで分からない、といった性質のものであると、これもまた飲酒ポルノ幽霊話である「百鬼の会」に書いている。そうだよな。記憶がなくなるんでもなく、味だけがどこかに行ってしまうような、次元の食い違い、世界の混乱、みたいなことが起こる。吉田健一はそれを小説でもしているのだと思う。

幽霊話、と言った。化けて出るのはなにも、恨みを残して死んだ兵士だとかに限らない。

その辺りは誰も死にはしなかったかも知れない。併し人間だけが土に化する訳ではない筈である。…トロヤの城郭の廃墟には現在、青銅の置物のような蜥蜴が日向ぼっこをしていて、プリアムの宮殿には梟が巣を作っているということを我々が思うとき、その傍を通れば勇士どもの幽霊が出て来るのではないかという気がして恐くなるのではない。寧ろ城壁に立ってパリスを見送るヘレナのことが頭に浮んで、そのヘレナが通るのを眺めることに生き甲斐を感じた老人達も、どこかこの辺に埋っているのだと考えることになりそうである。廃墟には人間だけでなくて、人間の生活が埋まっている。…空襲が烈しくなってからは、ピアノを疎開させるのは難しくて、五円で売りに出ているなどという話も聞いた位だから、麹町辺りでは随分灰になっているに違いない。それから麹町に住んで、夜な夜な賑やかな所に遊びに出掛けた男達の思い出というものだってある筈である。…そういう伊達男の一人がもし五年も六年も前のそういう記憶に耽りながら、一本しかなくなったジョニ黒の壜の飲み残しを傍に置いて、防空壕の中で息を引き取ったとしたら、その執念とは言えない甘美な郷愁は、まだ少しは夜風に漂ってはいないだろうか。(pp.112-13)

と考えながら歩いていたら、よくある怪談話と同じように、壁から天井まで美女に埋め尽くされ、幻の銘酒を次々出してくる店で豪遊し、後日探してもそれはどこにも見つからないのだった。

美食小説はいつでも、そこになくて、もうどこにもなくて、もしかしたら始めからなかったものへの狂おしい欲求を駆り立てる、ほとんどそれだけのためにある。それと同じように、過去と不在と幻想と憧憬とを召喚するために、何も分からならないように、飲まなければいけない。なぜと言って、現在は耐えがたい退屈だから。

そして相手がだれだろうと、これも建前の上では或る程度見られることになっている他所の女に話し掛けられたり、笑顔で迎えられたり、酒を持って来て貰ったりするのは、何もする気がなくて、これから先たって行く時間が壁になって自分の前に立ち塞がっているような場合には、始めて女というものに関心を持つきっかけにもなるもので、河野もそこまでは心が動き、それがバーで飲むことに興を添えた。(p. 251)

これから先たって行く時間、自分が過ごさなければいけない時間、その退屈に付き合って行くほかない。むやみに何かと思い悩むのでも、自己実現に向けて駆り立てられるのでもなく、ただ何かいい気持ちになったような、そこに何かあるような気がして、でもよく分からないままの後味を重ねて過ごしていくこと、そうして何か聞かれたら「ま、あんなものでしょう。何だってそうじゃないですか、」と答えて、そうして「流れ」の河野は、自分が今幸福なのだと悟る。

私たちの現在がそうまで暢気に過ごせるものでないにしても、しかし若さに追われることの別のあり方を、少しだけ酔って思った。

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