ルーツ旅【京都・山城地域①】ちょっと切ない、170年前の手紙
ある秋の日、私と娘は東京駅から新幹線に乗りました。いよいよ、京都・山城地域へのルーツ旅が始まります。
▼ガラスケースの中にあったものは
JR京都駅から木津駅へ電車で40分。そこからタクシーで10分ほどで、郷土資料館に到着しました。
館内に入ると、それまでメールでやりとりをしていたCさんが出迎えてくれ、挨拶もそこそこに、展示室へと案内してくれました。
壁に貼られた茶畑の写真、お茶の栽培の様子を説明したパネル、茶葉を加工する道具など、私にはもの珍しいものばかり。それらを横目に会場の奥に進んでいくと、Cさんがガラスケースのところで立ち止まりました。
それは、たくさんの墨書きの文字が並んでいる5枚の書状でした。
展示物の写真を載せられないのがが残念ですが、書かれたのは嘉永2(1849)年、今から約170年前です。
しばらく感慨に浸ったものの、その展示物の説明をみて、急に現実に引き戻された気分になりました。そこには、こう書かれていたのです。
きっと、江戸という巨大市場で生き残るためには、お得意先からの値下げ要請に応えざるを得なかったのでしょう。今も昔も、世知辛い世の中ですね……。
しかし、ご先祖もまさか、こんなちょっと情けない内容の手紙(書状)を170年後の子孫に見られるなんて思わなかっただろうなあ。私は少し、いたたまれない気持ちになりました。
▼郷土史にも色々載っていた
Cさんは、うちの先祖のことが載っている郷土史などを、いくつか用意してくれていました。
それによると、山城地域のお茶の歴史は、鎌倉時代に海住山寺の高僧によって持ち込まれたのが始まりだそう。
その後、元文3(1738)年に永谷宗七郎(あの「永谷園」の創業者の先祖)が、煎茶のつくり方を発明したそうです。
Q村では、1743年にはすでにお茶の栽培が盛んになっていました。そして、うちの先祖が住む地区には宝暦(1751~1763年)にお茶を栽培する人が2人いた記録があるので、おそらくそれが先祖でしょう。
たしか家系図の最初に書いてあった筒井喜兵衛が1741年ぐらいの生まれだから、年齢的にぴったり。まだ若いから、たぶん親子でやっていたんじゃないでしょうか。
▼意外と商売上手だった
当時、そのあたりの人々がお茶を栽培し、試しに宇治の茶商に売ってみたところ、たくさん利益を得たため、農家の副業として普及していったのだとか。
現在その地域は、緑茶の一大産地となっていて、その多くが宇治茶ブランドとして出荷されています。それもこれも、現地の人達がお茶づくりをしっかりと受け継いできたからに違いありません。
その後、天保年間(1830~1843年)の筒井喜兵衛(代々同じ名前)が、宇治ではなく直接、江戸の伝馬町の問屋に売り込んだところ、香りが他の地方産よりもよく、品質良好ということで好評を得たため、取引高は1000斤にもなったとか(1斤は約600gだから600kg)。結構な量だから、かなり広い茶園だったのかもしれません。
たしか家系図に、嘉永三年(1850)に亡くなった筒井喜兵衛がいたから、きっとこの人がやり手だったのでしょう。
こうしてみると、うちの先祖は、当時流行していたお茶の栽培をやってみたら、意外ともうかったので、それでどんどん規模を大きくしていったということのようです。だんだん、うちの家の歴史が見えてきました。
いよいよ明日は、先祖が住んでいた場所を訪れて、どんな様子なのか見ることにします。
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