ビビッドピンクな瞬間
森下未早矢(もりしたみはや)は某県立高校に通う高校2年生。成績も中の上くらいで、部活で取り組む競泳は結果が伴わなかったものの、周りからは真面目で頑張り屋だと思われていた。ただ彼女は日頃から自己肯定感が皆無だった。
同じ部活に所属し、同学年の小田原瞬(おだわらしゅん)はとにかく自分にも人にも厳しいストイックさと非常に高いプライドを有していた。練習には一切の抜かりなく取り組み、また早くから進路を決め勉学に励んでいた。
将来をまだ明確に決めきれていない未早矢にとって、しっかりし過ぎるくらいの人生に憧れと劣等感を抱いていた。その証拠に未早矢は瞬から“馬鹿にされている”ように感じる事が多くあった。互いに交わした言葉は少ないが、そうでなくとも視線や口調、話の内容でなんとなくそう思っていた。
夏の主要な大会が終わり、上級生が引退した7月下旬の放課後のこと。森下未早矢は普段のように支度をし、プールサイドへ向かうと小田原瞬がいて、誰かと話していた。
あれは、と覗き込むように見つめると、2人ともこちらを向いてきた。未早矢は慌てて目線を逸らして、2人がいる逆方向めがけてプールサイドの上を歩き出した。
林田知隼(はやしだともや)はクラスメイトの小田原瞬とたわいもない話をしたが、森下未早矢の視線が気になった。さりげなく微笑んでみたが、目線を逸らされた。なんてことない、また瞬との会話に戻ろうとすると、彼が彼女に対して睨みつけていることに気づいた。
「何か癪に触ることでもあったか。」知隼は瞬に尋ねた。
3人は水泳部に所属しているが、瞬と知隼は普段スイミングスクールに通っていることから、合宿や大会でない限りは顔を合わせることもない。気に入らないなら適度な距離を取ればいい、ある意味楽な関係であった。ただこの日は偶然、スイミングスクールの設備点検がある関係で、瞬と知隼は学校で練習することにしたのだ。
「あんなにトロいのに上位の大会に出れる。ロクに練習もしていないのに、顧問も大して怒りもしない。その事実だけで十分すぎる理由だろう?」と瞬は返事した。
未早矢は全部聞こえた。2人とも別に大声で話した訳ではないが、聞き取れてしまった。痛いほどわかってしまうから、顔を上げることができない。自分の努力不足とそれ以外の嫌な部分、それ以上に彼のひたむきな努力と確かな実力を知っていて、理解しているつもりでいた。
知隼はその後何か瞬に耳打ちしたが、それは未早矢には聞こえなかったし、気づきもしなかった。
未早矢は瞬を心から尊敬している。そしていつからかある想いを抱いていたが、それが一体何かまでは掴めていなかった。
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月日は流れ3人が再び顔を合わせたのは、9月に開催される、新人戦と呼ばれる大会当日であった。
早朝に集合した未早矢達は会場設営を行なった。作業が落ち着き、未早矢は自分たちの拠点となるテントの端辺りに腰かけた。しばらく朝焼けを眺めてぼんやりしていると、右横に知隼が座り込んだ。
未早矢はハッとして右を向き、狭いテントの中で更に端に寄ろうとした。知隼はその様子を軽く笑うと、別にそこまでしなくていいと言い、続けてこう言った。
「森下さんは瞬のこと、実際どう思ってるの?」
ギクリ、と胸の奥が痛んだ。あくまでも林田君は心配してくれてるだけだ、と言い聞かせて、かろうじて「別になんてこと無いよ」と返した。そうなんだね、と言い残すと相手はテントから離れていった。そう、悪気なんて無いんだ、2人とも。
他校の人も入場してきて、いよいよ大会はスタートした。個人種目が終わった後にリレー種目があり、1日で終わる予定だ。その為どうしても時間がタイトになり、未早矢はあっという間に自分の出場種目を終えてしまった。
残すは瞬と知隼達が出場するリレーのみ。各学校のリレー選手たちがゲートから入場し、スタート台の前に並んだ。その瞬間に未早矢はある異変に気がついた。瞬がゴーグルを持っていなかったのだ。
まさかと思い、振り返って彼の荷物を見ると、ゴーグルがバックの上に置いてあった。未早矢は反射的にゴーグルを掴み、人の目をくぐりながら走り出した。
瞬は第3泳者だ。それまでに渡せばいい。ただ、テントから選手のいる場所に向かうには大回りして行かなければならない。人とぶつかったり転んだりしない様、細心の注意を払いながら急いで向かった。
なんとか息を切らして彼らのいる場所に着いた。まだ第2泳者に代わったところだった。少し足元がふらつきならがも、瞬に対して
「こ、これっ、忘れてた…よ…」
とゴーグルを渡すことができた。瞬は最初は驚きながらも、まじまじと未早矢を見つめて、あぁと息をこぼすと
「それ、よく見てみろ」
と言った。よく見ると左レンズ上部分が欠けていた。これでは水が入ってしまう。
「何故かわからないが、大会のどこかで欠けてしまったらしい。この後も知隼から借りようと思っていたんだ。」と言うと、第1泳者であった知隼が近寄ってゴーグルを渡しに来た。
単なる思い上がりだった…
未早矢は恥ずかしさで下を向き、ごめんねと早口で言うとその場を去った。遠くで瞬が何か言った気がしたが、よく聞き取れなかった。
テントに戻る途中で瞬に代わり、未早矢は必死に応援した。元々はメンバーのことをできる限り全力で応援していたが、今回はとりわけ気合が感じられた。その期待に応えたか、瞬たちは1着でレースは幕を閉じた。
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新人戦から3日経ち、再び平穏な日々が戻った。未早矢は支度をしてプールサイドに向かった。しかし部室にゴーグルを忘れて一旦荷物をプールサイドに置き、取りに戻った。帰ってきてしばらくして未早矢はあることに気づいた。
自分のビビットピンクのブイに小さく
「この間もありがとう S.O.」とサインペンで書かれてあった。
この瞬間、胸の内で何かが弾け飛んだ。
今度は私が伝えるから。
-完-
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