自己否定、一進一退
数年前に友達のCちゃんに「泊まり込みのボランティアで〇〇県に行かない?」と誘われたことがある。そのときも、私はたまらず「自分の姿と存在を知らない人に新規で知られるのが怖い」という理由で一度断った。私は居るだけで人を不快にさせる存在だから、と。
その理由を言うことにすら、躊躇があった。「確かにその見た目じゃあね」と憐れまれてしまいそうで。
Cちゃんは私の成長のために優しさで誘ってくれたのだけれど、実際私は彼女が想定していたようなレベルにすら到達していなかった。そのラインにはるか及ばず、出来るとか出来ないとか、成長とか後退とか、そういうことの前に“自分が生きて存在していること”そのものに腹を立てていて、存在を耐えて自分の心を誤魔化しながら生きることで精一杯だった。もし直視してしまったなら、私は私が生きていることを赦せなかったのだ。
結局一歩踏み出そうと、一度断ったその誘いを受け入れて成長できるか試みはした。それなりの成長は確かにあったけれど、やはり自分の顔を見られることへの傷付きは人に会う度発生して、大人なのにそんなことを気にする私が格好悪くて恥ずかしくて、その分野では1ミリも成長出来なかった。
今思えば「自分の存在をこれ以上人に知られたくないから出来ない」という理由は、Cちゃんにとってはピンと来なかっただろうと思う。その悩みが私にとってどれほど深刻なことなのか分からなくても仕方がない。私もそう思う。
自分のことばっかり。
意外と人はそんなに見ていないよ、と言われることもあるけれど、長年見た目や仕草を嘲笑された経験があると、やはり怖いものは怖いのだ。だって実際に人は私に注目して、からかいの種にしていたのだから。やはり変な人は注目されてしまうじゃないか。嘘つき。
“他人はそんなに見ていない”という境地に達するにはかなり心が癒されてからはじめて納得できる視点なのだと思う。克服しようと敢えて積極的に行動することは私には逆効果となってしまった。
今でも一進一退だ。最近は調子がいいな、と思えば何かのきっかけですぐに崩れてしまったり。もう大丈夫なんてことにはならない。
私が身に着けた鎧は「笑顔」だった。
いつの間にやらそうなってしまった。あなたに敵意はないですよ、あなたと衝突したくないし傷付けたくないです。でも、あなたと本音をぶつけ合うつもりもありません。私にそんな価値はありませんから。表面上だけの円滑で良好な関係を維持したいです。できれば私のこと、忘れてくれたなら嬉しいです。
そうやって自分の心を守った。私が滅びてしまうその日まで、そうやって笑顔のバリアでやり過ごしていけたらと思った。その日をいつも待ち侘びていた。
すぐに傷ついてしまう自分がいやだ。
ちょっとした言葉の、ちょっとした表現の、それそのものは決してネガティブな意味を含まない言葉だとしても、その言葉の奥の、本当に言わんとしているかも知れない意味にざわついて、勝手に怯えてしまう。