夫婦の出会いが“柄と繪”の出会い。 山謙木工所 山本卓哉さん 山本由麻さん
福井県越前市の伝統的な産業の一つに、「越前打刃物(えちぜん うちはもの)」があります。南北朝時代、京都のある刀匠が現在の越前市に移り住み、農民のために鎌を作ったことからはじまったといわれています。その後、1538年には専門の打刃物業者が現れ、鎌を製造したという記録が残っています。江戸時代に入ると、商工業者の同業者組織である株仲間が組織され、その技術が受け継がれていきました。(越前打刃物について詳しく知りたい方はこちらから)
農具の機械化により、鎌から包丁へと作るものを変えながら、越前打刃物は約700年の歴史を誇ります。そんな打刃物の繁栄には、包丁の“柄(え)“を作る木工職人の存在も忘れてはいけません。今回お話を伺ったのは、包丁の柄を製造している株式会社山謙木工所の代表取締役、山本 卓哉(やまもと たくや)さんと、蒔絵師の山本 由麻(やまもと ゆま)さんです。
山謙木工所の主力商品は、蝋を染み込ませて防水性を強化する“ろう引き”という技術を使ったシンプルな柄です。塗装されていない木材を使っているため、木目や質感が際立ちます。一方で、漆や蒔絵の技術を持つ由麻さんの入社をきっかけに、柄に漆や蒔絵で加飾を施すという取り組みも始めました。
取材をさせていただいた場所は、『柄と繪(えとえ)』という自社の建物です。『「柄」と「蒔絵」を介して越前打刃物に触れられる場所』というコンセプトで作られました。
『柄と繪』は、山謙木工所の倉庫でありながら、包丁を販売するショップであり、由麻さんの工房でもあります。木工製品を取り扱う上で避けたい直射日光を防ぐための長いひさしや、漆塗料の一つである、弁柄(べんがら)色の壁、気軽に見てもらうためのガラス張りなど、細部にこだわりが感じられます。
こちらのショップには、地元の職人たちが作った越前刃物の包丁が取り揃えられています。そこから好みの刃と、山謙木工所の柄を組み合わせ、オリジナルの包丁も購入することができます。もっとこだわりたい人は柄に漆を塗ったり、蒔絵を施したりして、『柄と繪』ならではの芸術的な柄に仕上げることができます。蒔絵で細かい模様を描く際は時間がかかるため、後日発送という形を取っているそうです。
山謙木工所 山本卓哉さん
ーー卓哉さんは大学卒業後に家業へ入社されているんですね。
卒業後すぐに入社すると決めていたわけではなく、親からは「どこでもいいから何年か他の会社で働いてこい」と言われていました。ですが、就職活動を始めた頃、山謙木工所で働いていた叔父が亡くなってしまい、急遽福井に戻り、家業に入るという決断をしました。
ーーそうだったのですね。大学時代に熱中したことはありますか?
大学へはフェンシングのスポーツ推薦で入学したため、ずっとフェンシングをしていました。成人式の時も帰れないくらい練習をしていましたし、大学4年生の春まで大会があったため、学生生活はフェンシング一色でしたね。
ーー子供の頃は家業に対してどんな思いを持っていましたか?
小さい頃から名前を聞かれて「あそこにある木工所の山本です」と答えると、「山謙の息子か」と言われるような感じで、周りが僕のことを“山謙の息子”という感じで見ていたので、後を継がなければいけないんだろうなというのはずっと感じていました。姉たちはいずれ家を出るだろうと思っていたし、継ぐのは僕しかいないんだろうなと。
ーー卓哉さんの気持ちとしてはいかがでしたか?
両親を見ていると、苦しそうだなというのが本心でした。月末になるといつもお金の話をしていて、すごく苦労しているというのは子供ながらにわかっていたつもりです。「こんな会社に入って、将来何か良いことはあるのかな」と思っていました。
大量のサンプルを片手に、必死に仕事を覚えた
ーー柄の製造というのは、刃物業界とかなり密接に関わっていると思います。基本的には刃物の生産数が増えると、柄の生産数も増えるという認識で合っていますか?
合っています。しかし、生産量が増えると利益が上がっていくのが普通ですが、昔は単価の安いものを大量生産していて、今より生産数が多かったにも関わらず苦しい世界でした。更に、業界の中で値下げ合戦が起き、もう下げられない価格まで行ってしまいました。
ーー単価が安い会社に注文が集まっていたのでしょうか?
そうですね。当時はどこもほとんど同じような柄を作っていたので、価格でしか判断されませんでした。弊社は早い段階で設備投資をし、量産することができていたため、コストを下げることができていましたが・・・正直、選ばれていた理由はそこだけですね。弊社の製品がすごく良いから注文が来るということは特になかったですね。
ーー卓哉さんは入社後、叔父様の担当をそのまま引き継いだのですか?
叔父は機械全般を担当していて、僕はそれをそのまま担当しました。セットされた機械に材料を投入するのはそう難しくないのですが、最初に機械をセットするのが一番大事で、難しいんです。それを僕に教えてくれる人は誰もいなくて、残っていた大量のサンプル品や治具をパズルのように組み合わせて、ああでもないこうでもないと言いながらやっていましたね。
ーー機械のセットは具体的にどのように難しいのですか?
特に、弊社で使う木工機械は細かくて、建具製造など他の木工業で働いてきた人でも「こんな細かい木工機械見たことない」と言うくらいです。更に、ダイヤルを回して設定したり、数値を入力して動かしたりするものではなく、手の感覚を頼りにセットしていくものなんです。刃物の角度調整ひとつとっても、すごく繊細で本当に難しいです。
ーーサンプルと治具を片手に、読み解くような感じで機械のセットを覚えていったのですね。
「お前はどこをどうやったらこうなるんや・・・」と機械に話し掛けて、機械と会話するような日々でした。少しずつ機械のことがわかるようになり、5年ほど前に入社した従兄弟にも教えられるようになりました。今では、僕と従兄弟で分担して機械のセットをしています。
このままじゃダメになる 踏み切った値上げに予想外の結果
ーー山謙木工所は、時代と共に作るものを変化させて来たそうですね。
そうなんです。初代は轆轤(ろくろ)という回転する道具を使ってお椀などを作る「ろくろ木地師」でした。2代目は草刈り鎌の柄を製造し、3代目である僕の父が包丁の柄を作り始めました。木工というベースは共通していますが、代々、時代に合わせて変化して来ました。ですので、父からは「柄にこだわることはない、好きなことをしていい」と言われているんです。
ーー卓哉さんご自身はどうお考えですか?
柄の製造というベースは続けつつ、方向性を変えていこうと取り組んでいます。僕が高校生の頃、父が柄を作り始めたのですが、その頃は安いものを大量生産する時代でした。すごく忙しいのに、経営は厳しく利益は出ていないという状態で、私はもっと高単価で付加価値の高い製品にシフトしていかないといけないんじゃないかと感じていました。しかし、そうすると、大量生産品を収めているお客様に提供できなくなるというジレンマもありました。
ーー価格を上げるのは難しい話ですよね。
そうですね。それに、弊社の中で“付加価値が高くて高単価”と位置付けられている商品でも、僕から見たら安いと思っていました。それでもお客様からは「山謙の柄は高い」とよく言われていて。それをちゃんと確かめようと思って、知り合い何人かに柄を持っていって、「これいくらなら買いますか?」とか「いくらなら作りますか?」聞いて回ったんです。すると、返って来た答えが、当時山謙がお客様に卸していた単価500円~1,000円よりも、はるかに高い金額だったんです。
あるお客様が、よその唐木細工屋さんに弊社の柄を持っていき、製造を依頼したら「この材料を使ってこれだけの細工をすると、単価8,000円~10,000円はもらわないといけない」と言われたという話も聞きました。経営が厳しいからただ値上げしようと考えたのではなく、今までが“利益がないのに低価格すぎた”のです。行動しなければこの状況は変わらないと思い、値上げに踏み切りました。
ーーお客様やご両親の反応はいかがでしたか?
値上げする前に、ある若いお客様から「この価格でやっていて厳しくないですか?厳しいなら値上げしてもらって構わないですよ、僕も頑張るので。その代わり徐々に上げるんじゃなくて一気に上げてください。」とお言葉をいただきました。徐々に上げられると、その先のお客様も徐々に値上げしなくてはいけなくなるので、やるなら一気にしてほしいということでした。
両親からは止められました。そんなことやったらうちがダメになると。でも、やらなきゃ先がないんだからやるしかないと説得し、何か言われたら全部僕が対応するからと言って値上げに踏み切りました。
ーーどのくらい値上げしたのですか?
その当時の価格を倍に値上げしました。倍に値上げしてお客様が半分になったとしても、売上は変わらないですし、空いた時間で新しいことをする覚悟でした。やってやれないことないだろうと思って踏み切ったら、結果、ほとんどお客様が減りませんでした。とてもありがたいことです。
ーーご両親の心配も感じつつ、踏み切ったその背景には、どんな気持ちがあったのでしょうか。
本当は僕もめちゃくちゃ心配性なんです(笑)いつも悪いことばかり頭に浮かぶタイプなんですが、その時は様々な方との付き合いも増え、色々な話を聞いていくうちに、すごくプラス思考になっていたのかもしれません。やるしかないという気持ちで、不安はほとんどなかったですね。
海外への挑戦を機に、仲間との繋がりができた
ーー先ほど、「昔はどの会社の柄もほとんど同じだった」とおっしゃっていましたが、それは現在もそうですか?
低価格帯の柄は、どの会社もほとんど同じものを作っていると思います。この辺りで高価格帯の柄を作り始めたのは弊社が最初で、今も弊社だけが作っています。この黒い柄の包丁が代表的な製品です。それまでは、白い木材を使った柄がスタンダードだったんですよ。
ーー今では黒い柄の包丁もよく見ますよね?
そうですよね。昔から包丁は白い柄がスタンダードで、30年以上前に黒い柄を作った時には「板場に黒い柄の包丁なんて、不衛生だ」と言われて見向きもされませんでした。でも、県外にあるたった一社の鍛冶屋さんだけが「これはいい。僕が売るからこれ作ってよ!」と言ってくれたんです。その一社のために細々と作り続けていたのですが、10年ほど前に出会ったある若いバイヤーさんが、黒い柄の包丁を海外にどんどん輸出し始めたんです。すると、海外で評価されて人気が出ました。それから日本でも人気が出始めて、今では弊社の主力製品になっています。
ーー海外輸出は今でもされているのですか?
今でも輸出しています。海外輸出も一つのきっかけですが、10年ほど前から新しいことに挑戦しようと考えている越前打刃物の作り手同士が繋がり、仲間としてやっていこうという意識が芽生えたように思います。
ーー作り手同士が繋がったきっかけがあれば教えてください。
海外輸出をきっかけに知り合ったバイヤーさんが、日本のものづくりを海外の方に紹介する機会を作ってくれたり、作り手のみんなで海外のお客様に会いに行くことを提案してくれたりして、仲間感が徐々に強くなっていきました。また、越前市のタケフナイフビレッジには若手の職人さんが沢山いて、様々なイベントを開催しているので、そこでの繋がりも大きいです。
ーータケフナイフビレッジの方々は、刃物を作る職人さんが多いですよね。
そうなんです。最初、木工をしているのは僕だけでひとりぼっちでした。でも、このままじゃアカンなと思い、声を掛けたら歓迎してくれて、今ではみんなで食事に行ったり、話したりする仲になりました。
ーー交流の中で嬉しかったことや、思い出に残っていることはありますか?
仲間で展示会に出展した際に、準備の段階で「どうやって包丁・柄の良さを伝えようか」とみんなで議論したことがありました。それまでは、朝から晩まで工場に篭ってひたすら機械をいじる生活を10年くらい続けていたので、人と話しながら何かを生み出すのってものすごく楽しいなと感じたんです。「包丁ってすごく良い素材だよね」「柄ってこんなふうにできているのか!」と話しながら、自分とは別視点からの意見をもらえることへの喜びも感じました。大げさですが、その時に初めて、自分の仕事って誇れる仕事なのかもしれないと思いましたね。
ーーみんなで一つのものを作り上げるのは、昔から好きなタイプですか?
いや、そんなことはないですね。面倒なことは嫌いなタイプでしたが、みんなが「柄、いいね!かっこいい!」と言ってくれて、仲間に入れてくれたので、やってみようという気持ちになりました。
柄を作る、でも柄だけではない会社へ
ーー卓哉さんが今抱えている課題があれば教えてください。
木工というのは儲からない商売であることが本当に多いんです。木工所というのは、どの産業にしてもピラミッド構造の最下層であることが多く、どこの木工所も利益の恩恵を受けるのが難しいのではないかなと思います。
また、全国的に木工の機械メーカーの廃業が相次いでおり、「昔と同じ機械を作ってください」というオーダーができず、今新しい機械を導入しようとすると、フルオーダーメイドに近い作り方になることが多いです。その結果、一気に価格が跳ね上がり、新しい機械を導入することが難しくなっています。こまめにメンテナンスしながら大事に使っていますが、今後のことを考えると不安もありますね。
ーー現在作られている木工機械と、昔作られていた木工機械には違いはありますか?
今の機械は軽量に作られていることが多い反面、昔の機械はずっしりと重いんです。素材や製造方法の工夫で軽くなっていて良い面もありますが、私は昔の機械の重みが良いなと思います。特に“名機”と呼ばれる昔の機械は、鋳造で作られていてかなり重いですが、その分、高い精度で加工できます。そのような機械は今はあまりないと感じます。
ーー今後、卓哉さんが挑戦したいこと、取り組みたいことはありますか?
若手スタッフを採用したいと考えています。現在、会社としては柄しか作っていませんが、定時後に自分の好きなものを作っているメンバーがいるんです。そういう方が他にもいるんじゃないかと思うんです。もし何か作りたいものがあるなら、包丁の柄以外のものづくりにもチャレンジする環境を作り、それがモチベーションのひとつになり「仕事って楽しい」と思ってもらえるような会社にしたいです。
山謙木工所 山本由麻さん
ーー大学では漆芸を専攻していたとのことですが、漆に興味を持ったきっかけを教えてください。
美術系の高校に進学し、進路について悩んでいる時に、地元にある資生堂アートハウスという美術館で、工芸作品を目にしました。資生堂は1975〜1995にかけて「現代工藝展」という展覧会を開催していたため、素晴らしい収蔵品がたくさん展示されています。当時高校生だった私は、そうとは知らずに見に行きました。
それまでは、美術=見るものというイメージがありましたが、そこに展示されている作品は“生活の中で使うことのできる綺麗なもの”が多くて、それがすごくいいなと思ったんです。中でも、油絵をやっていた経験から色に興味があり、漆工芸に使われている色が綺麗だなと感じ、興味を持ちました。
ーーなるほど。大学では具体的にどのようなことをされていましたか?
自分自身が表現者となり、木地づくりから漆塗りまで、漆工芸を一通りやりました。蒔絵の授業もあり、蒔絵の基礎的な部分を学びました。
ーー在学中に福井に来て、この土地の魅力に気付いたそうですが、福井を訪れたきっかけは何ですか?
大学3年生に進級する前の春休みに、“伝統工芸職人塾”のチラシを見て、福井県で伝統工芸のインターンを募集していることを知り、参加したことがきっかけです。この取り組みは今でもやっていて、短期と長期があり、私は1ヶ月間、福井県鯖江市に滞在していました。
ーーその時はどんな仕事をされたのですか?
仕事をする以上は少しでもできるものをと思い、漆塗りの仕事を選びました。最初に県に電話で問い合わせた時に「漆塗りと言っても、角物と丸物がありますが、どちらがいいですか?」と言われて、そんなに細かく分かれているんだ・・・と軽いカルチャーショックでした。結果的には、お椀などを塗っている丸物の塗師屋さんにお世話になりました。
ーーやってみていかがでしたか?
仕事としては本当に大したことはできませんでしたが、沢山のことを教えていただきました。初めての福井・鯖江だし、初めての職人の街に暮らすことができて、すごく楽しい1ヶ月間でした。教えていただいた塗師屋さんがとても良い方で、卒業後に移住してからも本当にお世話になりました。
ーー1ヶ月のインターンが終わり、その時には鯖江で働こうと考えていたのですか?
その1ヶ月で住んでいた鯖江市河和田地区がものすごく気に入って、その後も夏休みに1ヶ月くらい河和田に行き、農家民宿のおばちゃんと仲良くなって、何をするわけでもなく過ごしていました。そして、冬休みも河和田に来て・・・若さなのか謎の自信があって、どっかの誰かに拾ってもらえるんじゃないかと思っていたんです(笑)
でも、実際にはそんなことなくてどうしようって時に、河和田でよくお世話になっていた塗師屋さんが快く受け入れてくれて、ひとまずはそこに入りました。その後、その塗師屋さんに私の親方である辻漆器店さん(塗師兼問屋)、田村一舟さん(蒔絵師)を紹介していただきました。辻さんには、製品としての漆器の強度や、使い手のことを考えたものづくり、業界の慣習など、本当に大切なことを教わりました。
ーー何度か訪問するうちに、鯖江市河和田地区に馴染んでいたのですね。
そうですね。移住前から河和田の方々との人間関係ができていたので、知らない土地で何もわからなくて困ったということはありませんでした。
ーー蒔絵はどのようにして勉強されたのですか?
田村さんは金沢の蒔絵師(加賀蒔絵)ですが、辻さんとビジネスを共にしているという繋がりから、蒔絵の勉強をさせてもらいました。塗師の親方と蒔絵の親方、私には2人の親方がいるんです。どちらの親方からも、塗りや蒔絵だけではなく、どんな産地のものづくりにも通用するような考え方を教えてもらいました。
でも・・・絵を描くのは元から好きでしたが、藝大入学には厳しい絵の試験をパスする必要があり、そのための絵の勉強がものすごく大変で、絵を描くこと自体が長い間トラウマになっていました。今でこそだいぶ回復していますが、蒔絵の仕事をしたばかりの頃は精神的に辛くて、親方に申し訳ないなと思ったこともあります。それでも蒔絵をさせてもらえて、すごく勉強になりました。
ーー福井(鯖江市河和田)と石川(金沢市)、異なる土地のものづくりを経験し、何か違いを感じることはありますか?
金沢の蒔絵(加賀蒔絵)と、鯖江市河和田の蒔絵(越前漆器の蒔絵)は、単価が違います。加賀蒔絵をしている私の親方は、1ヶ月に数点ほど蒔絵の商品を納めますが、河和田の蒔絵師は、1口が数十個ほどの大量生産の仕事であることがその理由です。加賀蒔絵の緻密な蒔絵を仕上げることも非常に大変でしたが、越前漆器の仕事をさせていただいている今現在は、同じ商品を数十個、一定の品質で、且つ手早く仕上げることの難しさを体験しています。
木工所に塗師がいるからできること
ーー山謙木工所の第一印象はいかがでしたか?
越前漆器の木地職人(漆を塗る前の木製のお椀などを作る職人)を見ていると、木地屋さんはすごく大変だなと思っていたので、山謙木工所は包丁の柄だけで社員が10人もいることに驚きました。
ーー木工という新たな世界に入ることに対してはどんな気持ちでしたか?
結婚する時に、もしかしたら「漆や蒔絵は辞めて木工所に入ってね」と言われることもあるかなと思っていましたが、そういうことは全くなく、今までやってきたことを続けていけばいいと言ってくれました。私も食器など生活に使う物の塗りの仕事は続けたいと思っていたので、すごくありがたかったですね。
ーーすごく良いことですよね。産地でのものづくりに憧れていても、外からすると中の様子がわからず、実際に入ったらどうなんだろうと不安に感じることもあると思います。
産地に入って実感した難しさは、弟子入り中にすごく感じました。言葉の受け取られ方や、振る舞いなど、こういう風に話すとこう受け取られてしまうんだというギャップにすごく悩みました。お付き合いする世代も60代以上の方が多く、世代の違いや自分の未熟さもあったと思います。悩みながらも何とか乗り越えてきました。
ーー由麻さんが入社して、柄に漆を塗る取り組みを始めたと伺いました。
包丁の柄に漆を塗ること自体は新しいものではありません。ただ、従来は山謙木工所の柄を買った包丁鍛治屋さんが、問屋さんを訪ね、塗師屋さんや蒔絵師さんに塗ってもらうという流れがあり、結構な人数が介在していました。でも、私が山謙木工所にいることで、“山謙木工所に柄を注文して行くついでに漆や蒔絵も頼める”という感じで仕事が始まるため、ほとんど1回のやり取りで済みます。
ーーなるほど。ショップには、どのようなお客様がいらっしゃいますか?
贈り物の需要が高いなと感じます。「こんな人がこういう場面で使うから」や「初めて持つ包丁だから、良いものを長く使えるように」という方が多く、心を込めた贈り物に選んでいただき、とても嬉しく思っています。過去には、他店で購入した包丁を持ち込んで、柄を変えてほしいという方もいらっしゃって、こちらが驚いたこともありました。
ーー柄にこだわるという楽しみ方が素敵ですね。
柄に何も塗っていないのはダメなのかというと、そんなことは全くないんですよ。何かが塗ってあると使いづらいという方もいます。それに、弊社が手掛けているような和包丁は、柄で刃物を挟み込むようにして作られているので、取り替えが簡単というメリットがあります。それがいいという方もいらっしゃいますので、本当に人それぞれですね。
山謙木工所をもっと活気のある会社に
ーー今後、ショップやこの建物を使って挑戦してみたいことはありますか?
卓哉さん:これからは、もっと若手包丁職人の包丁も取り揃えていきたいと思っているんです。今は数が少ないですが、数年後には独立を考える若手も増えるのではないかと予想しています。その時に、越前刃物の今を知ってもらえるような場所にしていきたいです。
由麻さん:最初から、ワークショップやカスタムオーダーなどの挑戦をしてきましたが、夫婦でなんとかやっている状態でした。来年の春に1名スタッフを迎える予定があるので、ここでハード面をしっかり整えて、時々なんかやっている場所ではなく、「ここに行けばこういうことをしてもらえるんだ」とはっきり認識してもらえるような場所にしていきたいと思います。
ーー由麻さんが今後力を入れていきたいことはありますか?
柄や製造中にどうしても発生する木端を活かした、オリジナルアクセサリーブランドにもっと力を入れていきたいと思います。柄の製造では、木に少しでもささくれがあるとその木材は使えず、木端が発生してしまいます。廃棄も保管もコストがかかるため、木端の詰め放題イベントを開催したり、オリジナルアクセサリーに使ったりしています。今はまだ駆け出しなので、これからもっと深めていきたいです。
あとは、春から漆塗りに学生さんを1人迎え入れることになったんです!
ーー由麻さんと一緒に漆をやる人が増えるんですね!その方は学生さんなんですね。
そうです。最初は「誰でも一緒にやってみようよ」という気持ちで、身近な知り合いにアルバイトをお願いしたこともあったのですが、漆の扱いを知らない人に教えるのは想像以上に難しいと感じました。もし、私が子育てを終えた立場なら、子供を見るような気持ちで見守れるかもしれないですが、自分も子育て中だし、未熟で、未経験の人にイチから教えることは、今の時点では難しいと思いました。そこで、まずは漆を専門に学んできた方と一緒に頑張って、ゆくゆくは地元の未経験の人にも仕事を教えられるようになれたらいいなと思っています。
ーー楽しみですね!最後に、夢や達成したいことなどはありますか?
工芸と一口にいっても、棗(なつめ:茶器の一種)やお椀、万年筆など、確立されているジャンルが様々あります。いつか、そこに包丁というジャンルが入ったらいいなという野望があります。もちろん、みなさんが生活の中で使うものは作り続けるのですが、美術や工芸を学び、漆をやっている私が、包丁の世界に関わるチャンスがあるなら、そういう挑戦もしていけたら面白いのではないかと思っています。
あとがき
取材させていただいた「柄と繪」は洗練されていながらも、木の温もりが感じられる空間でした。山謙木工所のある池ノ上町周辺には、かつて何軒か柄を作る木工所があったそうですが、今ではそのほとんどが廃業してしまったとのことです。
今回の取材は、ものづくり新聞編集部の20代女子コンビでした。由麻さんとちょうど同世代で、同じ目線になりながら様々なお話を聞くことができました。記事には出ていませんが、雑談中に盛り上がったのは、“産地に入り、ものづくりをしながら人生設計をしていく“ことについて。由麻さんもそうだったように、家業がある方と結婚したら、「自分もその仕事をすることになるだろう」と心のどこかで決意を固める瞬間があるのではないかと想像しました。山謙木工所のように、これまでの経験を活かしながら、新たな取り組みにも挑戦できる環境は、人生設計を描き始めた20代(特に女子)にとって、とても魅力的に感じます。産地でご結婚され、子育てをしながらものづくりの道も突き進む由麻さんの言葉に、興味津々な私たちでした。