キルケゴール「キリスト教の修練」×現代キリスト教世界の矛盾×未来
こんにちは、ナマポニーです。
宿泊業や飲食業などの自営業を営んでいましたが、現在は、家族3人で生活保護を受けながら生きています。
そんな私ですが、実は6年前に洗礼を受け(水にドボン)、キリスト教徒として生きてきました。
初めて聖書を読み始めたのは、13年前になります。
学生であった当時、キリスト教というものに全く興味はなかったのですが、先生を交えて聖書を読んで、解説を聞いたりするという会を、定期的に行っていました。
正直、聖書の勉強は中々かったるかったものの、新たなものの見方を発見することができる、という点において、悪くなかったとなあと覚えています。
そんな事もありつつ、なぜか、人生流れ流れていたら(導き?)キリスト教徒になったわけです。
そして、今回、プロ奢ラレヤーの影響を受けて、それまでは興味のなかった「古典」というものに興味が湧いてきたので、まず、キルケゴールの「死に至る病」を読んでみました。
すると、そこには絶望について深く掘り下げられており、「陰キャの私にはピッタリのええ本だな~」などと感じたのです。
そうすると、なんと、キルケゴールの「死に至る病」の続編?完結編と称される、「キリスト教の修練」という本があるということじゃあありませんか。
尚且つ、調べてみると、キルケゴールは「キリスト教のソクラテス」とも言われているみたいなので、問答無用、さっそく図書館に行って、本を借りてきました。
結果から。
まず初めに、読んだ感想からですが、
「私の7年間は、偽りのキリスト教徒であった」という事に気づかされ、圧倒されてしまいました。
そして、今まで自分が信じてきていたもの、見てきたものとは、いったい何だったのか?と愕然とし、読んでいる最中は、悪い意味で、毎日胸がドキドキしていたのです。
キリスト教概要、はじめての人のために。
本題に入る前に、キリスト教についてざっくり説明します。
キリスト教の聖典である聖書は、旧約聖書と新約聖書の2部構成です。
旧約聖書は、天地創造から始まり、最初の人アダムが土の塵から、イブはアダムのあばら骨から形作られて、生きるものとされました。
その後、命の木と善悪の知識の木がある「エデンの園」で楽しく暮らしていた彼らですが、蛇にそそのかされて、善悪の知識の木の実を食べてしまったのです。
そうすると、神様は怒ってアダムとイブをエデンの園から追い出しましたが、その子供たちが神様に怒られつつも子孫を増やしていく、という物語になっています。
新約聖書は、神様から子孫繫栄の祝福を受けた、アブラハムの子孫である「イエス・キリスト」の生涯や、イエスの弟子(使徒)について語られた物語となっています。
中でも、イエスが生きている時代は、旧約聖書に書かれている通りの儀礼やしきたり、ルールを守っていたユダヤ教徒が、幅を利かせていました。
ですが、旧約聖書をもとに、「ユダヤ教とは違った真の解釈」を人々に広めたのが、イエス・キリストです。
それを傍目に見ていたユダヤ人は、「なんやあのポッと出の奴は!こりゃ、ワシらのメンツ丸潰れや!よっしゃ、ここは、十字架(当時の最も恥ずべき処刑方法)にかけて処刑してやりましょうか!」ということで、実際にそのようにしたのです。
そして、イエスは私たち人間を、罪(りんご食った!)から救うため、十字架にかかって死にました。
しかし、イエスは3日後に復活し、その後40日間、地上で生活された後、天に昇ったのです。
最終的には、イエスはいつの日にか地上に再臨し、人類を救いに導く最後の審判を迎える...。
というお話になります。
自分の7年間のキリスト教徒としての体験、所感
さて、そんな私のキリスト教徒ライフ、7年間をギュウウつっと濃縮してみます。
ちなみに、あんまり教派とかには興味がないのですが、いちおう私はプロテスタント、らしいです。
私は、もともと信心深くもないですし、正直、自分は冷たい人間だなあと感じていたことは否めません。
また、宗教に関しても、「なんか、宗教を信じてる人って、騙されやすそうだし、バカなんじゃないかあ...」と考えていたフシも正直、あります。
それから、教会に行きはじめ、牧師の説教を聞いてみると、「ふ~ん、まあまあ理解できるし面白いけど、ハッキリ言って、為になる教養レベルだよな~」と感じていましたし、今でも説教に関しては、そんな印象です。
しかし、徐々に教会にも慣れてくると、聖書の勉強会などの交わりにも参加する機会もあり、「キリスト教徒として生きる、信者の方々の苦悩や生き方」を垣間見ることができたのは、自分の人生においても大きなに励ましとなっていることは確かです。
また、自分で聖書の勉強をしているうちに、「キリスト教って、ホンマに優しい設計が緻密になされとるわ~、もっと深く知って、人生や仕事にハックできないかな~」などと、考えてもいました。
疑問点。信じる者は救われる、の違和感の正体
毎週日曜日は教会に行く、というキリスト教生活を送っていた私ですが、キリスト教に関して、いまいちしっくりこない、釈然としない感情は持ったままでした。
そして、今回、キルケゴールの「キリスト教の修練」に出会い、キリスト教世界に感じていた違和感の正体が、ハッキリと明るみに出たのです。
それでは、本書の内容について、早速見ていきましょう。
キルケゴールのキリスト教世界へのディスり。 まとめ
キルケゴールが命を懸けて行いたかったのは、一言でいえば、
キリスト教世界にキリスト教を再導入しようと試みること
です。
キルケゴールは、1850年に「キリスト教の修練」を敢行した後、1855年、路上に昏倒するまで、デンマーク国教会と闘っていました。
それ以前にも、キルケゴールは出版を行っていたのですが、本書は彼の「最後の遺書」として書かれたものなのです。
牧師、聖職者の説教についてのディスり。
私は、これまで、様々な教会の説教を聞きに行きました。
その時からずっとあった違和感、それは、
「説教の中身がねえ。」
に尽きます。
なぜでしょうか。
キルケゴールは言います。
現在、牧師や聖職者がキリスト教について陳べ伝えている内容は、
人々の愛と、好意を一身に集めるという、甘美な報いを自らが味わうために、好感を寄せようとする虚偽であり、神を冒涜する行為である。
実際の説教を聞いてみると、
「あなた方は罪人です。しかし、イエス・キリストが十字架にかかり、あなたの罪を贖ったおかげで、あなたは救われたのです。だから、キリストのみ名によって癒され、喜び合い、互いに愛し合いなさい」
と、毎度のごとく、イエスの優しさや愛について、涙ぐみながら私たちに語り、また、私たちにもお涙頂戴を促すのが常です。
また、牧師は続けて、
「今日は、歴史の観点からイエス・キリストについて考察してみましょう」
と、説教を始めます。
これに対して、キルケゴールの「歴史」についての考えは、こうです。
キリスト教的なものは、この世的なものに対して、一段上のもの(教養)と成り下がってしまった。そして、歴史の観点から考察する事によって、イエスを神人ではなく、偉人として、歴史の中に同化吸収してしまった。
また、「考察」についても言及します。
考察とは、対象のすぐそばまで接近する動きを取るが、他方では、対象から無限に遠いところに、考察者自身を離す行為である。
それは、主体であることをやめ、キリストと客観的な態度で接するという事です。
つまり、客観的であるがゆえに、かれらの説教が「当たり障りのない、安全地帯からの知識の押し売り」に成り下がってしまいました。
だから、それを聞く私たちも、まるで大学の講義を聞いているような、無味無臭であり、出席してもしなくても単位が取れてしまうような、無価値なものへと変えられてしまったのです。
そして、「信仰というものが、次第に知恵へと成り下がってしまった」とキルケゴールは嘆きました。
実際に、この社会を見ていても明らかな通り、イエスの教えや教養の方が、イエス自身よりも重要な事であり、社会のいたるところに、それが組み込まれ利用されています。
しかし、それは、イエスを抹殺する行為にほかなりません。
また、牧師や聖職者の、「イエスに対する想像力が生み出す理想像」は現実の苦しみや、苦しみの現実性が欠けています。
だからこそ、キリスト教以外の自己啓発本が謳っているような内容しか、牧師は話すことができないのです。
牧師、聖職者の態度や存在についてのディスり。
また、私が実際に牧師や聖職者に接する機会があり、常々感じていたことがあります。
それは、
なんでこんなに信徒に興味がないのか?
なぜ信徒と心理的に距離を置くのか?
まるで、先生と生徒のような関係であり、一人一人と向き合わないのか?
そのくせに、信徒が少ない、と嘆いているのか?
ということです。
キルケゴールは、牧師や聖職者のそのような態度、存在についてもこのように批判しています。
かれらは、イエスを賞賛する事を、自分たちの特権と見なし、イエスの真理と正義に対する功績に、タダで与ろうとしている者達である。
また、
苦しんでいる人に対比して、弾劾的な問いを突き付けて、自分自身の義の優越感を満足せずにいられない。
それは、彼らの心の奥底にありありと存在する、人間的な欲望を露わにしています。
ここで、ハッキリと牧師や聖職者という存在について、
キリストという看板を売り物にして、腹を肥やしながら、キリストの受難を過去のものにしてしまった、キラびやかにめかし込んだ者達。
とも、言っています。
実際に、どうでしょうか?
プロテスタントにおいて、牧師や執事は、きっちりとしたスーツ&タイで壇上に立ち、「神様に対する態度が、衣服に現れる」などと、自らの顕示欲をひかえめに暴露しています。
また、カトリックは、もう見るも無残。
一目瞭然です。
かれらは、イエスの権威を我が物顔に振りかざし、我に従え、と言わんばかりに、世界で偽りの宣教を拡大します。
ただし、イエスの賞賛者であるかれらは、
自分にとって不都合や危険がやってくると、そそくさと身を引いて逃げ出してしまう
のです。
それは、まるでイエスを売った、裏切り者である賞賛者、ユダのように。
そういうわけで、キルケゴールは、現在の牧師、聖職者、私を含め(大いに)キリスト教徒は、「いばっていながらも臆病、生意気でありながら弱虫」、まるで甘やかされた子供のような人々である、
と揶揄しています。
これは、Twitterを見ても明らかで、お互いを批判し合う、幼稚な牧師、聖職者、キリスト教徒が、自分の主義主張を声高らかに、いつもマウントを取り合いじゃれ合っています。
ただし、そこにはキリストの存在意義である、人々を救うこと、の「人々」が完全に抜け落ちており、自称キリスト教徒が、救いの代わりに、気持ちの悪いマスタベ説教をせっせと披露しているのが、悲しい現実です。
結果的に、現代では20億人と言われる、偽のキリスト教徒が世界中に溢れかえる結果となりました。
キリスト教世界へのディスり。
ここまで、キルケゴールは、私が日頃から慣れ親しんできた牧師などに対して、聞いていると耳が痛くなるような指摘をしました。
それでは、なぜキリスト教世界に、ここまでの虚偽が蔓延してしまったのでしょうか?
キルケゴールは、「躓き」について深堀りすることで、偽りの正体を明らかにしようとします。
躓きとは、つまり、「信仰」と相関関係をなすものであり、それは、分岐点に立つこと、と規定しています。
話はシンプルで、躓きの可能性から道はわかれて、躓きに至るか、そうでなければ信仰に至ると言うのです。
そして、私たちが信じるものとなるには、躓きの可能性という門をくぐり抜かなければなりません。
躓きは、主に二つのタイプに分けることができます。
それは、「高さの中にひそむ躓き、卑さの中にひそむ躓き」です。
まず、高さの躓きについてです。
例えば、あなたに、
「あなたは罪人です。しかし、あなたがイエス・キリストを信じれば、あなたの罪は赦され、救われるのです」
と、いきなり誰かに言われたとしたら、どう思いますか?
私が大学生の時に、大学構内を歩いていたら、メガネをかけた陰気そうな男の子が同じような質問をしてきたのですが、正直、そいつの胸倉をつかんでぶん殴りたかったです。
だって、正直訳が分からないじゃないですか?
いきなり、ぶしつけでしょう。私の事も全く知らないのに。
普通だったら、私と同じように感じるのではないでしょうか。
しかし、これこそまさに、高さの中にひそむ躓きなのです。
つまり、私たちは厚顔無恥であり、プライドだけ無駄に高く、キリストに対して無知であり、自分のバカさ加減を認知せず、盲目であり、要は井の中の蛙に過ぎません。
まるで、社会も何も知らないのに、イキっている大学生のように。
だからこそ、私たちは、自分を全知全能の神のように認識し、「自分を超えるものの存在」に気づこうともしないし、認めようともしないのです。
これが、キリストの高さゆえの躓きです。
そして、二つ目の「卑しさの中にひそむ躓き」についてです。
私たちは、基本的に、イエス・キリストといえば、絵画に描かれているように、温厚で、優しそうなオジさんが、天使から囲まれている崇高な人物として、イメージされているのではないでしょうか。
しかし、聖書を読むと、イエスの本当の姿が見えてきます。
イエス・キリストは、私生児として父親に疎まれながら、しかも、ユダヤ人の王とされていたのに、貧しく、汚い馬小屋の母屋で生まれます。
私たちが想像するような、「ユダヤ人の王」とは正反対の人生の始まりです。
また、イエスは宣教を始める前まで、「大工」という至って普通の職業で、身分が高い仕事に就いていたわけでもありません。
そして、30歳頃から宣教はじめた後、使徒と呼ばれる弟子を集め、病床にある人や犯罪者に罪の赦しを伝え歩きます。
その選ばれし12人の使徒はといえば、漁師や町の嫌われ者である徴税人など、身分の低い賤しい者達でありました。
ここで、実際に想像してみてみましょう。
いま、あなたの目の前に、薄汚い恰好のホームレスのオッサンが、あなたに「私は神人である。私を受け入れ信じる者は救われる」と言うのです。
また、かれの周りには犯罪者や、ヤクザ者、ホームレス、病人、足の萎えた人、など数十人の取り巻きがいつも一緒に行動しているのです。
もし、私なら、「自分が神だとほざいてるこのオッサンは、キチガイに違いない。絶対に信じるわけもないし、従うわけねえだろ、アホ」と考えるに違いありません。
だって、そうでしょう?
まず、神様がこんなに貧相であるわけがないじゃないですか?
だって、神の子ですよ。
頭には王冠をかぶり、黄金の衣装をまとっていて後光がさしている、神に対するイメージはだいたいこんな感じですよね。
ですが、実際に私の目の前にいるのは、それとは文字通りホームレスのような卑しい人間です。
また、たとえ、私が興味本位でついて行ったとしても、知り合いに見られでもしたら、「お前はあんなホームレスみたいな奴となんで一緒にいたの!?」と問い詰められ、その仲間だと勘違いされてしまうかもしれません。
そんな危険を冒すことは、絶対御免でしょう。
これが、イエスの「卑しさの中にひそむ躓き」なのです。
そして、私たちは、高さゆえの躓きを逃れたとしても、この卑しさによって躓きます。
周りを見ても分かるように、キリスト教徒や、まして、牧師でさえもキリストに絶望し、彼に背を向けているのが現実です。
なぜなら、現実には、イエスは病を癒すこともできず、食料を恵むこともできず、人に与えることなど一切できず、奇跡を起こすことなど無論できません。
ただ、共に寄り添う事以外には。
そして、私たちは、彼に救い出されるよりは、もとの苦しみの中にいた方がマシであることを理解するのです。
イエス・キリストとはどのような存在か?
この躓きの観点からキルケゴールは、イエスについて言います。
イエスは、賤しき姿か、高き姿か、を選び取ることではなくて、その全体を選び取ることであり、つまり、イエスは複合的存在であり、同一不変のものである。
なぜなら、イエスが賤しい姿にあった時には、すでに高く上げられていたからです。
例えば、金持ちが昔、「私は、いつかこの世で一番の金持ちなると神が約束してくれたのだ」と、貧乏人だった時に言ったとしましょう。
それを聞いた私たちは、その貧乏人に向かって「寝言は寝て言え」と言うに違いありません。
この言葉は、「彼がまだ貧乏人であった時に言った」というのがポイントです。
そして、彼が金持ちになった後、私たちはその言葉が、彼が貧乏人であった時の言葉であるという事実から目をそらそう、話をそらそうとするでしょう。
もちろん、自分が誤りであったことを認めたくないですし、それほど重要なことだとも思っていないからです。
これが、「イエスは複合的存在である」という事であり、大きな躓きの原因でもあります。
つまり、イエスは、高いところから私たちを引き上げる存在であり、また、絶対的無条件に卑しく後ろにいる存在でもあり、私たちを後ろから押し出してやる力を持っているのです。
イエス・キリストの苦しみとは?
高さの中にひそむ躓き、卑さの中にひそむ躓き、について説明しました。
そして、最後に、苦しむ者の躓きについてです。
イエスは、神人として地上にいた時、使徒や何千もの人々から、期待され、賞賛されました。
それは、「ユダヤ人の王として君臨し、国を治めるものとなるだろう」という希望が、人々のうちにあったからです。
しかし、イエスはファリサイ派や律法学者、裏切り者のユダの手にかかり、神人である自分を救うこともせず、十字架にかかり、あっけなく死にました。
では、神であるイエスが、自分を救わなかったのはなぜでしょうか?
それは、
真理が、この世において勝つ道は、苦しみを受けること以外になく、それはこの世で敗北することを意味するからである、
とキルケゴールは言います。
イエスは、死に際して、それまで従ってきた群衆から見放され、自分の弟子であるユダからも売り渡され、使徒全員からも見捨てられました。
そして、自身の死の間際に言います。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」、と。
そうです。
イエスは、唯一信頼していた神からも見放されてしまったのです。
神人であったにもかかわらず、一人ぼっちで死んでしまいました。
なぜでしょうか?
それは、私たち人間がいつも感じていること、つまり「神なんていない」と絶望している私たちに共感し、私たちの苦しみを理解したいがためでありました。
最終的に、イエスは、人生で勝利というものを一度も味わうことなく、また、一瞬たりとも苦しみを超越することもなく、圧倒的なまでの敗北の中で死んでいったのです。
ここから、私たちがキリストを顧みる時、歴史や知識からではなく、キリストの圧倒的なまでの「敗北」を背負った生き様こそが、全てを伝えます。
それは、
イエスは、自分自身が最も切実に救いを必要としているのにもかかわらず、自分のことを微塵も顧みず、他人を救おうとしたが、それすら失敗に終わった
ということです。
つまり、キリスト教とは、優しい慰めでも何でもなく、救われるものでもなければ、救われるべきものでもありません。
なぜなら、キリスト教とはイエスが生きたように、「きびしさ」という道の中にしか存在しえず、真の救いは「死んだ後に」神がみもとに引き上げることだからです。
悲しい事に、私がキリスト教に持っていた、信じれば救われる、傷ついた心が癒される、人生が上手くいき始め、成功するかもしれない、というような「この世的な」救いは、実際には見出され得ません。
だからこそ、現時点で存在している「優しいキリスト教」というものが、虚偽であるし、信じていたものは、牧師や聖職者が自分たちの利益のために創り上げた、虚像だったのです。
また、キルケゴールは言います、
牧師や、聖職者は、聖なる誓いを立てて貧しさの中に生きる人ではなく、神を暗黙のうちに葬り去り、この世のもの(王)とすり替えてしまった。
私たちへ。なぜキリストは、全ての人を救いたまわなかったのか?
ここまで、躓きについて、また真のキリスト教徒とは、「この世での敗北を意味する」という事を分かち合ってきました。
そして、「いや、てか、こんな頭のおかしい宗教なんて信じたくもないわ、あほ」と、思われたに違いありません。
そりゃあそうです。
なぜなら、真にキリストに従うものとなるという事は、この世的なものを憎しむことであり、今まで自分が信じて努力してきたことを、失うことだからです。
もう、訳が分かりませんよね。
ただ、私たちには、この訳の分からないキチガイのような宗教を受け入れない、という選択肢も、もちろん与えられています。
その理由を、なぜキリストは全ての人を救いたまわなかったのか?という観点から、見ていきましょう。
まず、聖書において「私を信じなさい、従いなさい」とイエスは言い、実際に従うものがありました。
確かに、イエスが奇跡を起こしたり、病を癒したりすることを目の当たりにし、素晴らしい説教を聞いたりすれば、従いやすいでしょう。
しかし、重要なのは、その次のステップです。
その後、イエスは何も言わずに黙り、こちらから要求することなしに、かれらがイエスに聞き従うのか離れていくのかどうか、かれらを試しました。
例えば、あなたに恋人ができたとしましょう。
あなたは、恋人に「お互い、絶対浮気なんてしないよね?約束だからね」と言うと、あなたと恋人はその約束を信じます。
次に、その恋人が「同級生との飲み会があるんだよね~、まあ、昔つきあってた人もいるんだけど」と言った時、もしもそこに本当の信頼があれば、あなたは何も言わずに、ただ「いってらっしゃい」と言うでしょう。
逆に、あなたは恋人に、「おまえの事を信じているからね?約束破んなよ、絶対夜9時までに帰って来いよ」なんて、気持ちの悪いことは決して言わないはずです。
なぜなら、恋人はあなたの奴隷ではなく、自由を尊重するからこそ、信頼関係が成り立ち、そこに愛があります。
同じように、人間はイエスの奴隷ではなくて、「人間の自由を認めているからこその問い」があるのです。
つまり、
真実の意味で引き寄せるという事は、ある意味で突き放すという事であり、選択を突き付けることである。
と、キルケゴールは言いました。
キリストを信じるかどうか、私たちには選ぶ自由が与えられており、また、イエスは全世界の人びとを、奴隷として信じることを強制していません。
だからこそ、聖書は
招かれるものは多いが、選ばれる人は少ない(マタイ22:14)
と宣べているのです。
本物のキリスト者に遭遇
このように、私たちは、偽のキリスト教徒や牧師、聖職者がこんなにも全世界に蔓延っていることを、絶望しているかもしれません。
いや、絶望せざる負えないでしょう。
しかし、絶望のうちにこそ希望は輝きを増すことを、私は実感しています。
なぜなら、真にキリスト者として生きているものが、実は最も近くにいたと気づかされたからです。
私は、彼女と初めて会った時から、キリスト者として、人間として偉大であると感じてはいましたが、違和感を覚えていたことも事実です。
その違和感とは、彼女が余りにも貧しく、子供がいるにもかかわらず、お金を稼ぐという事に無関心で、それなのに、人を救うために行動し、何時間も何時間も深夜、早朝に祈り、人に会いにゆく、という奇行についてです。
それは、自分にとっては、余りにも理解しがたい生き様であり、本当に申し訳ないのですが、頭が悪いだとか、キチガイだと思い続けていた事は否めません。
実際に、私の周りの“キリスト者や牧師”を見て下さい。
信徒は、家族を食わすために日々会社でせっせと働き、マイホームを持ち、大きな車を運転し、日曜日は子供たちと教会で礼拝します。
また、牧師は、日本や韓国、アメリカなどの巨大な教会の支援をもとに、安心して宣教を行っているのです。
しかし、彼女はというと、宣教師から洗礼を受けて、のちに牧師となりましたが、召された教会はと言えば、自分の所有物にもならず、牧師と言う責任と職務だけが重くのしかかっています。
また、その宣教師はと言うと、自分の責務は終わったかのように、「わたしは、大学で学生に教授するのに忙しいのだ、また来週にはアメリカの大学へ呼ばれているんだから」と、彼女の貧しさのことなんか、まったく気にも留めていません。
それはまるで、アフリカの村にJICAが井戸を掘ったのち、「その維持の事は俺の知ったこっちゃねえ。なに?水がもうでない?任期も完了したんだから、どうしようもないっす~、後は勝手にやってください」と言っているのと、同じです。
そして、彼女は貧しい信徒から、雀の涙のような献金をもらい、それを当てにして現在も細々と生活しています。
それから、いつも支払い延滞のためWIFIは停まっているし、壊れたスマートフォンを自分で買うお金もありませんし、子供の教育費だって十分に払えているのかも定かではありません。
実際に、わたしが、彼女が牧師になるための学費を提供したこともあります。
そんな、信徒の中でも最も貧しいものが、自分のことを顧みることもなく、他人のために生きる、というキチガイじみたキリスト教の真理を、私が理解しうることは不可能だったのです。
しかも、牧師となった経緯を詳しく聞いてみると、「キリスト教徒になる」と、夫に相談した時、「こいつはキチガイに違いない」ということで、罵声を浴びせられ、ボコボコに殴られたそうです。
しかも、夫だけではなく、親族や村人からもからも詰め寄られました。
しかし、彼女は殴られ責められながらも、口答えすることも、抵抗する事もなかったと言います。
結局、今では、その夫は彼女を支えるものとして、キリストに従うものとなり、親戚もキリストに従うものへと変えられているのです。
そして、信じがたい事に、その彼女とはわたしの母親なのです。
真のキリスト者として生きるには?
実際に、真にキリスト者として生きるものが存在する、という事実を目撃した私ですが、いったい私は何から、どこからキリスト者として生き始めればいいのでしょうか?
キルケゴールは、私のような人間について、このように揶揄しました。
現代の多くの人は、生ぬるいばかりで、自由思想家であり、嘲笑者であり、頑強な精神を持つ否定者である。
実際に、私は生活保護を受けた後、「何としても半年以内に生活保護から抜け出してやる、金になるようなスキルを早く身に付けなければ」と焦っていましたし、生活保護を受ける前と比べて、精神になんの変化もありませんでした。
相変わらず、敗北した事を認めず、いつかは成功したい、誰かに認められたいという欲望のままに生きていたのです。
そして、自分が何に囚われていたかも理解せず自由思想家ぶっていた私に、キルケゴールが、真のキリスト者として生きることを教えます。
それは、
世に対して死にきり、地上の宝を捨て去り、己を捨てること。
私の生き方が、ひとりの人間として可能なかぎり、キリストの生き方と似たものになるように、努めること。
それは、肉体的にではなく精神的に自らの意思で死ぬ、という事を選び取ることに他なりません。
精神的に死ぬという事はつまり、それまでの自分の厚顔無恥であり、プライドの高さであり、無知、動物的な欲望、全知全能のように振舞っていた自分の態度についてです。
また、それだけではなく、自分が今まで人生を賭けて必死に得ようとしてきた、「金を稼ぐためのスキルや、名声、有名になること」を自ら進んで失うことを選ぶ意思、のことでもあります。
自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとするものは、それを失い、わたしのために命を失うものは、かえってそれを得るのである。(マタイ10:38)
しかし、これまでの自分が死んで終わりではなく、ここから、自分の新しい命が始まることを信じます。
そして、実は、神様はエデンの園に、善悪の知識の木とあともう一つ、命の木を残していました。
そして、その命の木とは、つまり「イエス・キリスト」に他なりません。
神様は、私たちを救う計画を綿密に立てておられたのです。
わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである(ヨハネ6:51)
だからこそ、わたしはイエス・キリストという命の木の実、パンを日々食べることで、真に生かされるのです。
最後に
また、生きるという事は、苦しみから逃れることではありません。
逆に、キリスト教は「苦しみの福音」とも呼ばれています。
イエスに倣って、苦しむということは、受け身であり不可避的な苦難に忍耐する事ではなくて、人々のために善を求めるのに、逆に、悪(嘲笑、侮蔑)をもって報いられることである、
と、キルケゴールは言います。
よって、真にイエスに従うものとは、私たちが日々、自分の病気のこと、金の労苦、何を食うか、どこに住むか、会社での出世、人間関係などにより苦悩し、涙を流す人のことではないのです。
これらは、自分の為の困難であり、「決してみ言葉のため、キリストの為の艱難ではない事」に注意しなければいけません。
つまり、イエスに従うとは、自分の意志で自ら引き出され、試みられ、戦い、苦しみを受けることなのです。
正直、そんなことが自分にできるかと言われば、自信はありません。
ですが、私は、誰よりも誠実にならなければならない、キリスト教の修練を受けなければならないものである、という覚悟をいま、ここにもっています。
試練とは、自己否定であり、自己自身を否定する為の試練である。そして、自己自身を批判するがゆえに、苦しみを受けること、これがキリスト教としての苦しみである。
私にとっての最初の試練とは、キリストと深く出会い、体験し、それを伝えることです。
また、自分自身の行いや、態度、信仰が、いつも自分や他人を通して批判にさらされることを覚悟し、それを悔い改める誠実さを忘れません。
現代では、迷える子羊が群がり、本物の牧者もおらず、偽物の牧者に導かれ、欺かれ、羊同士がお互いの毛並みについて褒め合い、慰め合い、貶し合う、そんな時代に私たちは生きています。
ですが、それぞれの時代において、キリストとの関係に新しく入り直し、イエスの生き方を範例とし、イエスの似たものとなろうとする努力を怠りません。
私はもうだいぶ年も食ってしまいました。
ですが、私は、やっといま、生きる為のスタート地点に立ったのです。
今回は、お読みいただきありがとうございました。キリストを知らない者のために、また、キリストを知っているようで知らない者のために、シェアして頂けると幸いです。
最後に、キルケゴールとの出会い、古典との出会いを薦めてくれたプロ奢ラレヤーに感謝します。
では、また。
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