吃音と東京喰種
こんにちは。
ものくろです。
今回は、『Stammering Therapy from the Inside(STI)』から、第1章 Self-advocacy for people who stammer(吃音のある人のためのセルフ・アドボカシー)を読んでの感想となります(本文とはほとんど関係ないです笑)。
ですので、セルフ・アドボカシーについては以下のKaienさんの記事を参照してください。
題名にある「吃音と東京喰種」とは一体どういう意味なのかと疑問に思われるかと思います。誤解を招きそうですので説明しておきますと、東京喰種の作者である石田スイ先生に吃音があるとか、作品の中で吃音のあるキャラクターが登場するといったことではありません。
そもそも『東京喰種』をご存じない方もいらっしゃると思いますので、簡単にご紹介します。『東京喰種(トーキョーグール)』は、2011年から週刊ヤングジャンプという青年誌で連載されていた漫画で、後にアニメ化、実写映画化もされた大人気作品です。続編となる『東京喰種:re』は2018年で完結しましたが、今でも国内外問わず根強いファンの多い作品です。
主人公の金木 研(カネキ ケン)は、平凡な生活を送る大学生なのですが、とある事件に巻き込まれることで半喰種(人間と喰種のハーフ)となってしまいます。
先ほどから何度も出てくる「喰種」ですが、簡単に言えば吸血鬼のような存在です。喰種は、見た目は人間とそっくりであるものの、人肉と珈琲しか食べられない生物で、吸血鬼のように日中は活動ができないなどの制約もなく、ただ人肉と珈琲しか食べられない存在です。
東京喰種の世界では、少数派の喰種たちは自分たちが喰種であることを隠しながら多数派の人間の世界に溶け込んで暮らしています。喰種の存在はあまり知られていないものの、人間を食べる彼らは人間から恐れられる存在であり、喰種たちは普通の人間のフリをしながら生きているのです。
例えば、普通の食事が取れない彼らは、サンドイッチを美味しそうに食べる練習をします。どう咀嚼すれば美味しそうに見えるのかを研究したり(大げさに口を動かしてみたり、ちょうどよいタイミングで嚥下(えんげ)をするなど)、味の感想も用意しておきます(例「ここのパン、フワフワで美味しい」など)。勿論、普通の食事が取れないので、サンドイッチの味が分かる訳もなく、彼らにはとても生臭い生ゴミのように感じられるのであり、後でトイレで吐き出したりすることで普通の人間のフリをしているのです。
また、人間から半喰種になった金木は、大好物であった牛肉のステーキが食べられなくなってしまうのですが、今まで当たり前にできていたことが当たり前にできなくなることはとても辛いことです。金木は、喰種になってしまったことが受け入れられず飢餓状態になるまで人肉に手を付けずに珈琲だけで飢えを過ごそうとします。喰種は珈琲を飲めるものの、珈琲の栄養価は低く定期的に人肉を摂取する必要があり、結果的に仲間の喰種から無理やり人肉(亡くなった人の肉)を食べさせられることで飢えを凌ぐことができました。人間を食べるくらいなら死ぬほうがマシだと考えていた金木にとって、このことはとてもショッキングなことです。
僕はそこまでアニメや漫画に詳しい人ではないのですが、当時初めて『東京喰種』を読んだときには、喰種たちの苦悩は吃音者の苦しみに似ていると感じてドハマりしてしまいました(僕は:reよりも無印派です)。どうしてこんなに面白い作品なのに今まで知らなかったのだと後悔したくらいでした。
吃音のある人であれば、喰種と共通することがあることは感覚的に伝わりやすいと思うのですが、吃音のない人にはなかなか理解し難いかもしれませんので、もう少し詳しくお話します。
吃音症状は非常に場面や言葉への依存性が高く、流暢に話せるときと流暢に話せないときの差が大きく、その場面や言葉への依存性から症状をなかなか把握しづらい障害です。そのため、吃っている姿を見られていない人から見れば、自分は健常者(普通の人)のように見られ、吃っている姿を見られた人からは障害者(普通ではない人)のように見られているように当事者としては感じてしまいます。日々のこう言った経験は、吃音当事者に健常者と障害者を行き来する感覚(二面性、アンビバレンス)を与え、東京喰種でいう半喰種と近しいものを感じさせます。
では、具体的に何が共通しているのかと言いますと、まずは日常のコミュニケーションで自分を偽ったコミュニケーションを取らないと不自然になってしまうことがあるということです。
例えば、学校の授業等で発表をしなければならないときには誰しも大なり小なり緊張するものだと思います。しかし、多くの人が感じる緊張と、吃音者の感じる緊張は大きく異なっているのです。
普通の人であれば、発表をする際に自分の名前が言えるのか心配することはそうそうないと思うのですが、吃音者にとってはこの自分の名前を言うこと自体が大きなハードルだったりします。また、発表のために原稿を用意して何度も声出しの練習をしているのに、苦手な音で詰まったり、繰り返しを起こしてしまうのです。そのために、吃音のない人が「発表緊張する〜笑」と言い合っているのを目にすると、「言葉がスラスラ自由に話せる人たちが何を緊張しているんだ。私は怖くて心臓がドキドキして手足は震えているし、無事に発表を終えられるのかさえ分からないんだ。」と強く怒りを感じてしまいます。内心ではそう思っていても、なかなか素直に言うわけにもいかず、ラフな感じで「そうだね。緊張するね〜」などと応えなければならないことは非常にストレスです。まるで、食べられないサンドイッチを美味しいと言わないといけない喰種たちのようだと感じます。
他には、自分のアイデンティティが健常者にあるのか、障害者にあるのか分からなくなってしまうことです。金木は、半喰種になるまではただ単に喰種は怖い存在だと思っていたのですが、自分が半喰種になることで喰種には喰種の正義があり、苦悩があることを知ります。作品の中で、喰種は白鳩(ハト)という警察のような存在に命を狙われており、常に周りを警戒しながら生きていかなければなりません。
これに似たようなことが吃音にもあります。それは、日々吃(ども)らないようにして自分の話し方に注意しなければならないということです。多くの吃音のある人は、吃りそうな言葉が感覚的に予測できます。例えば、「おはようございます」の「お」で詰まりそうだと感じたときには、「おはようございます」を言わずに会釈だけで済ませたり、コンビニでアイスコーヒーを購入するときに「アイスコーヒー」の「ア」で吃りそうだと感じたら、「冷たいコーヒー」と同じ意味の別の言葉に言い換えをすることがあります。吃音者は、四六時中自分の吃音に気を張っていなければならず、それだけで精神をすり減らしたりすることもあります。
世間一般的には、吃ったくらいでいちいち気にしすぎだ。喰種のそれとは違うじゃないかと感じるかもしれませんが、実は多くの吃音者は四六時中白鳩に命を狙われている喰種のように言葉に怯えながら(障害者(変わった人)であること、吃音があることをバレたくない!)生活を送らなければならないのです。
自分に嘘をつかなければならないのはとても辛いことであり、また吃音を隠し切るのはとても難しいことです。ですが、それは不可能ではないのです(吃りそうなときは話すのを止めたり、話す量を減らすようにするなど)。(症状が軽度である場合は)案外行けちゃったりします。この感覚が、吃音者が健常者でもあり、障害者であるように感じてしまう理由です。
作中で、金木は半喰種として多数派の人間と少数派の喰種の境目にいる貴重な存在となります。金木が、自分は人間側に立つべきなのか、喰種側に立つべきなのか葛藤するシーンは本当に心苦しいものがあります。また、半喰種という中途半端な存在であるが故に、人間にも喰種にも理解され難い狭間で生きていくことの辛さもあります。しかし、金木は半喰種という特殊性を活かして、人間と喰種の架け橋になろうともがく姿は読者として心から応援したい気持ちにさせられました。
吃音者にも似たような感覚があると感じるのですが、(社会一般的なイメージの)健常者でもないし(社会一般的なイメージの)障害者でもない狭間を生きていくことの辛さ。中途半端であるが故に、誰からも理解されないような孤独感があると思います。しかし、半喰種ではありませんが、半障害者(僕の造語です。)として金木と同じように、健常者と障害者を繋ぐ架け橋的存在になれるのではないかと淡い期待も抱いています。もしかすると、吃音者にしか見えない視点もあるのではないでしょうか。
今回の「吃音と東京喰種」はここまでとなります。
最後に、STIの第1章の中で特に印象に残った文章がありますので2つ紹介させていただきます。
一つ目は、Meredith(2010)の引用です。
二つ目は、Irwin(2005)の引用です。
今回はここまでとなります。
長文となりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
それではまた~👋
良い一日を!