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Ryuichi Sakamoto | Playing the Orchestra 2014
映画になった、坂本龍一の2014年のサントリーホールでのコンサートを見た。
![](https://assets.st-note.com/img/1736246949-Tbunx0Fa4jkMEJo8iAGeqDvz.jpg?width=1200)
それは素晴らしい
音楽の時間,だった。
坂本龍一は元気がよく、
壮大な曲も、繊細な曲も、
怒りに満ちた曲も全力で演奏し
指揮していた。
弾き振り、という手法の
なんと贅沢なことだろう。
彼の指先から虹のように音が紡ぎ出されて
いくみたい。
東京フィルハーモニー交響楽団との息もぴったり。
そこには演奏家への敬意と、「音楽する喜び」
が満ちていた。
そのすべてを堪能するとともに
彼の命が失われたことを改めて実感する。
軽妙なMCに笑い、ラストエンペラーの壮大なフレーズの後の密やかな旋律に心を掴まれ、
あらゆるタイミングで泣いた。
感情が忙しい。
若手の現代音楽作家藤倉大さんが編曲した
Ballet Mécanique が観客に受けていることに喜び、
福島の子供たちのオーケストラの音の素晴らしさを語る
坂本龍一。
アルバムにはないBibo no Aozoraの不協和音の連発が、
Ballet Mécanique のラストの
びよんびよんと畳み掛けるヴァイオリンたちの
不協和音に対をなすように
アレンジされているみたいと
勝手に想像して、1人で悦にいったりした。
坂本龍一の旋律には
坂本ぶし,としか言えないような
独特なニュアンスがある。
私はその坂本成分が大好きで、
自分が即興でピアノを弾くたび、
ついつい無意識でその片鱗を追いかけてしまう。
それは繊細で、ちょっとセンチメンタルで、
耽美がかった空間性のようなもの。
ナルシストになりそうでならない
ギリギリな理性。
昔々セロニアス・モンクを
演歌と言って嫌っていた
坂本龍一。彼の音楽にはその
演歌に通底する叙情性がある。
(多分だからこその嫌悪だったのだろう)
過度の叙情性は、規模を拡大すると
壮大なスペクタクルになる。
例えばラストエンペラーの中に
そういうセンチメンタルな要素が一欠片もなかったとしたら、それはひどくつまらないものだったに違いない。
戦場のメリークリスマスがヒットしすぎて、
もう弾くのが嫌だと言ったり、
それでも311の被災地で喜ぶ人々のために
ひたすらそれを弾き続けたり
彼の人生の経緯の全体を知っているわけでは
全然ない。
ただすみっこのファンとして
片鱗を感じているだけで
良かったのだ。
存在してくれているだけで良かったのにと
失われたことを思うたびにまた、
泣いてしまう。
![](https://assets.st-note.com/img/1736247029-XsNfUbpaM0JxqtWrdu37on6G.jpg?width=1200)
坂本龍一は10代の頃の私の先生だった。
ドゥルーズもガタリも
彼に教わった。社会問題への眼差しも。
「坂本龍一」がどれほどメジャーになっても
私が好きな1番のアルバムは
「千のナイフ」だ。あれに厨二病心がやられたのだ。
実は彼の死を知っても、
なかなか感情は動かなかった。
存在が大きすぎて、命が失われる実感を持つことが
できなかったのかもしれない。
この映画を見て、
映画の中の元気な坂本龍一を見て
初めて私は彼を追悼できたような
気がする。
2014年のこのコンサートは
伝説になる。
彼の音楽の素晴らしさが
後世に残っていく。
長い間,本当にありがとうございました。
心からご冥福を
お祈りします。
合掌