諸法無我(2)。「未来は決まっており、自分の意思など存在しない」を読んで
この本の最初にリベットの実験。手首を動かそうとすると、手首が動く550ミリ秒前に脳波(準備電位)が出て、それから200ミリ秒経って自覚的な意思が「手首を動かそう」と思い、それから350ミリ秒経って手首が動いた。この意味するところは意思より前に脳が反応しているということはなんだろう。ここから、自分の意思なんか存在しなくて、本能というか、自然が自分を動かしている、のではないか、ということの実証実験となっていると。
次に、この本には唯識が出てくる。親鸞の正信偈に出てくる天親菩薩が考えた論だな。五感と知覚によって自分は世界があると思ってるけど、それは意識、その下の末那識、その奥底の阿頼耶識という自分ではどうしようも動かせない潜在意識みたいなものが作り上げている仮構の世界で本当には実在しない、と。アラヤ識のアラヤは氷の倉庫という意味のヒマラヤのアラヤで、記憶や過去の全ての物事の倉庫らしい。ひとりひとりあるようだが、正信偈にも大海とあるように、阿頼耶識の大きな海、ということみたいで、ブラーフマンに繋がってるアートマンみたいでもあるが、違うと言ってる。でも、まあ、ある種の自動機械みたいに、こう来ればこう反応するみたいな潜在意識、本能のようなものかな。これに執着心の末那識がまとわりついて、意識になって、自分が見たいような世界が見えているのであって、本当の外界はないと。胡蝶の夢や邯鄲の夢のようなものと通じるかな。これはこれで、そういうもんだろうな、とは思う。
アートマンは常一主宰の我と言われ、自分でコントロールできるとバラモン教は言っているようだが、釈迦は諸法無我、そんなものはないと。ミランダ王の問いの車のように、自我は時空的な関係性の中で一時的に出来上がっているもので、動的平衡というのに近く、無常である。
阿頼耶識は我でもない、アートマンでもない、そこを間違うから、釈迦はそれを生きているうちには言わず、大乗仏教を作る時まで黙ってたと天親菩薩は言ってるみたいだ。
実在はないという理屈としては、むしろ全てのものはお互いの関係性で成り立っており、なにものも独立して実在するものは無く、それを空という、という龍樹菩薩の論の方が、昨今の量子重力理論にも似ていて、より説得力がある気がする。
天親の唯識、阿頼耶識だと、ジム・キャリーのトルーマンショーみたいに周りは全てフェイクだけど、自分にそう思わせるために、自分以外の全員が演じている、という設定でも同じ状況が作れてしまうのでは。バートランド・ラッセルだったか、世界は5分前に作れる、と同工異曲だ。
唯識派と中観派の対立とはどういうものなのだろう?天親菩薩の唯識。龍樹菩薩から発する中観。中観と龍樹の空の思想は違うのかな?
妹尾武治さんのこの書物は、深く書いていないので阿頼耶識についてはよくわからなかった。また阿頼耶識の理解のため横山紘一さんの唯識の本を読んだが、空の思想との関係についての言及を見つけられなかった。
自分としては、釈迦の諸法無我、諸行無常があって、龍樹の空の思想があって、私を含む全てはそれぞれが永遠に実在することはなく、相互の関係性の交点として生じて、関係のネットワークを通って届けられる情報などインプットはは少しづつ変わっていて、交点である私はしばらく同一性を保つがだんだん入れ替わって、いずれ、交点がほどけて、もとの空に溶けて戻っていく、のであるから、今を味わって、さようなら、ということではないかと思う。