人は独りで生きてない
今朝、買い物のため街を歩いていたら、
目の前から歩いてくる男の人に
すれ違い様、思い切り肩をぶつけられた。
ものすごい力だったから、
おそらく故意にぶつけてきたのだと思う。
その人と話したこともないし、
その人のことを全く知らないから、
なぜ見ず知らずの自分に肩をぶつけてきたのかはわからないけれど、
なんだか生きていると
見ず知らずの人に肩をぶつけたくなることもあるのかもなと、少し考えた。
もちろん、見ず知らずの人に故意に肩をぶつけてはいけないし、
肩をぶつけられて嫌な気持ちにはなったけど、
果たしてこの人が100%悪いのか。
果たして自分はこのぶつけてきた人に「あなたが全部悪い」と批判すれば、それで全て解決するのか。
この人だって、訳もなく、手当たり次第に肩をぶつけているわけではないだろう。
全ての行動には原因があるからだ。
おそらく何かしらの他者との対人関係やストレス、怒りなどの感情が抑えきれなくなって、
たまたまそこに居合わせた自分(他者)に肩をぶつけることで、少しでもこの感情をチャラに近づけたかったんじゃないかな。と。
つまり、彼がした「他人に肩をぶつける」という行為には彼以外にも原因があるはずだ。
そんなときに、
SUPERBEAVERの「ひとりで生きていたならば」という曲を最近聴いたことを思い出した。
もしも、人が誰ともかかわらず、
独りきりで生きていたら、
誰かのことなんか何も気にせずに生きていたら、
ストレスを感じることもなく、
誰かを怒ったり、誰かを責めたり、
肩をぶつけたりすることもなかったかもしれない。
でも誰かと生きていかなきゃいけないから、
自然と誰かのことを考えて、
誰かを怒ったり、誰かを責めたり、
誰かに肩をぶつけたいと思うのかもしれない。
こんなことを書いていると、
今すぐにでもこんな窮屈な場所を離れて、
独りっきりで、誰ともかかわらずに生きていた方が自分にとっても、他人にとっても、
いいのかもしれない。と思えてくる。
だけど、
独りじゃなく誰かと生きているからこそ、
誰かと笑い合ったり、誰かのことを考えたり、
誰かのために行動を起こすことができる。
この自粛している間、
独りきりだったけど、
今までの人生で一番、誰かのことを考えていた。
今までの人生で一番、誰とも会えなかったけど、
今までの人生で一番、人と繋がりたかったし、話したかった。
「こんなことしてたよ」とか、
「あれ知ってる?」とか、
どうでもいいことを誰かに報告したかった。
とても不思議である。
数ヶ月前に
職場の人間関係で疲れて帰ってきて、
「もう誰とも関わりたくない」と思った日のことが嘘のようだ。
今ではこうして
誰かの存在を求めている。
生まれた頃から死ぬまで「一人の人間」だけど、誰ともかかわらず「独りきりで生きていく」ことはできない。
人は誰かの腹の中から生まれてきて、
生まれた瞬間に自分以外の「誰か」の力を借りなければこの世に出てくることはできない。
その時点で独りきりではないからだ。
もちろん、
「誰かと生きていく」ことはつらいけど、
「誰かと生きていく」ことは楽しい。
自分はわりと独りでも大丈夫な方だが、
それでも「誰かと話す」ということが、
どれだけ楽しいことだったのか、自粛中に散々思い知った。
人と人との間で発生する問題やストレス、それにより起こる事件。
「誰かと生きていく」ことはつらいこともあって、落ち込むことも多いけど、
それでも結局、誰かに励まされて、誰かと協力して、その問題を乗り越えていく。
「誰か」に苦しめられている最中でも、
「誰か」の存在が希望になって生きる力をくれることもある。
とても皮肉な話だが、
生きていく過程に「誰か」の存在は必要だ。
こうして循環していくためには、やっぱり誰かと関わり合って、生きていかないといけないみたいだし、僕は誰かと生きていきたい。
そして、
今日もnoteを更新するのは、
誰かに読んでもらいたいより他ない。
あ、牛乳買い忘れた。
おわり