【異郷日記】20/9/24 雑踏で思うこと
なんとなく目覚めて時計を見ると、まだ夜明け前だだった。ヨガのために無理やり寝たのに寝不足で逃したくない。目をつむった。
ヨガへ。心の位置が戻ることを期待していた。それは談義があればそこでその効果がでる気がしたが、体を動かして呼吸に集中するだけで、終わったらだいぶ戻っていた気がした。気になること、思い出したことをメモすることでもかなり調整された。
今日は休みなので、行きたい場所、やりたいことがたくさんある。朝食後、出かける。作ったリストにチェックを入れ、思い出したことをメモし、たくさん歩いた。スキンケアグッズと来年の手帳を手に入れた。そのお店が立ち並ぶ繁華街に、調子っぱずれのラップを披露している、薬物の影響の後遺症なども考えられる若者の声が響いていた。霧のような雨が降ったが、歌は続いていた。
そこでふとホームレスのようなおじいさんが目に入った。よく見ると、9年前からたまに見かけていたホームレスの人だった。途中で少しふっくらし、ビッグイシューの雑誌を売ったりしてもいたのに、元々は背が高いその人が今は背を曲げて小さくなりながらも手押し車を押して移動していた。ここ数年は見かけていなかったので、もしかしたらと思っていた。姿を見て安心したと同時に、確実に歳を重ねていて、状況の好転に限りがあったような暗示を見せられたようで切なくなった。
その後も通ったフードコートで、かなり若いカップルが並んでヌードルを啜っているのをみて、私は相手と仲良くするより、自分と仲良くするのに忙しすぎたのと、それもまだ発展途中だとぼんやり思った。自分と仲良くできてなくても、相手とやっていくことはできるが、問題が発生しやすく解決しにくい気がする。
歩きながら、家族の問題や子どもの時の記憶が断片的に浮かび続け、それらの状況やそこで感じた自分の感情を、その時その時で受け止められていなかったと改めて思う。この異郷に身を置き、自分が自分をはめ込んだ他者の視線、期待、世間の常識でできた鋳型から外れ、カウンセリングを続けてようやく見えてきた自分の輪郭。と同時に、少しずつ、自分の気持ちを感じて、受け止められるようになってきた。今は最後に残られた山を開けている気がする。怒りの底にある悲しみや絶望を見ている。そう総括していくと、あんなに懐かしく大切な実家も、かすんでみえる。やはり終わらせるのか。どこに落ち着くのが一番よいのか。昔のことを引きずる自分と今の生活のバランスを取るとどういう形になるのか。歩き続けながら、どんどんとそうした内省的な思考や感覚が出てくる。だからなのか、東京では一人あてもなく街から街へ歩いているのが好きだった。
可愛い雑貨や服をチェックし、マーケットで食材を仕入れ、フレンチパティスリーでモンブランを買い、日本食材屋でも買い物をし、そこの店員さんと日本語で美味しいお店の情報交換。底をつきかけたガソリンを入れて、帰宅。敷地が雨と風で散った花びらでまた埋め尽くされている。雨が降ったので水やりはしなかった。モンブランやおせんべいを、長らく仕舞い込んでいた抹茶黒豆茶と共に楽しんだ。ここ数日の怒涛の日々を振り返りながら日は暮れた。
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