【異郷日記】7/9/24 近所付き合いと住み替えにまつわるあれこれ

土曜日の休日の朝、遅めに起きた。気持ちのいい青空なので裏庭で洗濯を干していたら、隣家との間にあるフェンスに隣家側からボールが何回かぶつかって、こちらの敷地にサッカーボールが入ってきた。すぐに隣家側に投げ返して、洗濯干しに戻ったら、裏庭まで二人の男の子が入ってきた。小学校高学年に見える子の方はボールを一つ小脇に抱えており、ボールは投げ返したよと伝えると、無言で去った。もう一人の低学年らしき子はわぁ魚がいるんだと池を見てからありがとうと言って去った。この男児なち一家が引っ越したきたばかりの時に、家人が男児の父親に、うちの敷地に許可取らなくともボールを取りに入って来てよい、と勝手に伝えていて、私は嬉しくなかった。前庭なら構わないが、裏庭は家屋の横を通ってから入ってくるかなりプライベートな場所であり、一度ならまだしも、他人が気軽に日常的に突然入ってくるのを許すのは抵抗があった。事象だけを見るならば、こんなに気軽に子どもが入ってくるのは、ご近所が平和で信頼しあえるということだと思うが、しかし子どもたちが転んで怪我をしたり、敷地内で大人抜きで何かあってからでは遅い。また他の人が気軽に入る呼び水になるのも困る。モヤモヤしたが、あの子どもたちのせいではないし、切り替えた。とにかく晴天を満喫したくて、近くの川に沿った遊歩道に歩きに行った。

土曜の朝、何の義務もなく、ゆっくりと歩くことに集中し、自然を味わえる。太陽が輝いて、空は青くて、緑の葉が輝いている。とても気分がよく、手放しで心から幸せだと感じた。昨日までの連勤も終わり、充実の三連休が送れそうなことが嬉しくて、気持ちが高揚していた。ウォーキング中、気分が良い時とかなり具体的に突然ある曲が聴きたくなる時は音楽を聞く。若い頃は音楽ばかりだったが、音楽で気分を上げ下げ左右すると、思考や感覚がとんでいってしまう気がするようになってかなり頻度は減ったが、でも気分が音楽になったら聴く。

昔よく聞いていた懐かしい音楽をイヤフォンで聴いた。日本のバンドだが歌詞が英語で、当時は意味がわからなかったがメロディやテンポやパッションが好きだった。アップルミュージックで標準される歌詞を見て驚いた。ティーン向けの歌詞で、今の仕事のクライアントたちに見せたい気がしたし、そしてミュージシャンたちも自分も、当時からあまり変わってないとも言えると思うほど、そのある意味で反骨精神丸出しでカッコつけてて強がっている歌詞はストレートに心に入ってきた。たまに感じる青くささも受容できたところに自分の大人としてできてきた余裕という成長の一端を見たりした。

ふと、この散歩の舞台が故郷だったらどうだろうと思った。土曜の朝、家の周りの自然を歩く。田圃道、川沿いの未舗装の道、近所の小さなショッピングセンターまでの道。思いついたのは、そういった道で、あまり木がない。太陽に照らされるか、風に吹きさらされるか。なんだかあまり楽しくなさそうだと感じた。ほんとうに自然の中なのだが、中途半端に人間の生活のための整備がされているので、なんとゆうか、本当に側道に何もない。木々や森、茂みなどが好きな私には、スカスカとしてよりどころがなく、自然から突き放されている感覚になるのだ。

今歩いている、この現地の川沿いの遊歩道は、ウォーキングやランニング、サイクリングなどを目的としているので整備されているし、傍に
は木々があって、ほどよく木陰もある。そのせいか、自然の中に入っている感じで、安心感がある。ここでは、人間の生活の場としての歴史はあまり長くないので、なんというか、家々、場所にもこもっている記憶や念のようなものがあまりないと思う。サラッとしていて、いらなくなったり、変わったら、それに合わせて変えていくことを躊躇せず、常によりよい、望ましい状態へとアップデートされている感じだ。必要なら修理し、もしくは壊して建て替え、不可解な状態で空き家になって朽ちている過程の建物などはない。むしろ全国的に家が足りなくて困っているほどなのだ。そんな特徴が自然にも反映されているのか、私の主観の反映なのか、どんな場所でもすっきりと気持ちがいいことが多い。風通しがよいのだ。故郷のじっとりと長い歴史を含める自然も好きだが、すごく重く感じる時があり、背負いきれない感じがしていた。なので、この身軽な空気が心地よいし、この身軽さを日本で実践できないバリアは、やはり決意、決意の源になる信念の不確定さなのかと思った。

帰宅して、隣家の男児たちの件を家人に説明し、隣家の父親に子どもだけでうちの敷地内に入ってくることの懸念を話すよう伝えたら、わかったと言っていたがどうなんだろう。きっと言わないんだろうなと思いつつ話題は変わった。こういう日本とは違う理由で言わないというのは現地でもある。日本では、言うと悪いからとか平和のためだが、こちらでは言っても平和は保てるけれども自分のキャパシティを低く見せない、余裕があるという自分のプレゼンテーションの一端のような印象がある。

午後は、もうじき遠い異国の世界最高峰山脈地方へ出かけるのでうきうきしている家人にくっついて、家人の知人宅に向かう。こちらでは、日本以上に家を所有することは大きな財産でありステイタスである。しかし、何歳になってもライフスタイルや好みの変化に合わせて、住居を住みかえる。人生に何度か家を売買するのは当たり前なので、子どもの巣立ちや伴侶との離別などあれば、無理して現状維持ではなく、ダウンサイジングする。とっても素敵な家でも、手放して、自分たちのその時の状況にあった家に移り住むし、それが当たり前なのだ。そのいさぎよさ、合理的なやり方は本当に見習いたいところだ。そして、そんな住みかえ事情ではあるが、ご近所付き合いもある。もちろんサバーブや年数にもよるだろうが、挨拶しあい、情報交換するなどは、世界共通だと思う。

夜は近所の方を招く。ラテン系の方だからか、大変到着が遅い。日本の故郷では近所の方が朝早くから急にやってきたり、家にあがってお茶を飲むことはあっても、食事までは記憶にある限りない。こちらでは、こうして、人を招きあうのが好きな文化だからだと思うが、とにかく皆延々とよくしゃべる。今日のゲストは遅くなっても三軒先だからすぐに帰れるというのもあるのだろう。皆よく近所のことを知っている。皆よく見ているのだな、そして皆感じることは似ていると思った。途中で目がほとんど閉じても皆しゃべっていた。家人の作った辛いグリーンカレーを食べて舌を干上がらせ、眠い目をこすりながら、夜は更けていった。

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