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市役所壁画 2

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2.画家と弟子


1938年 猪熊弦一郎

フランスの南東にある街ニースに、彼がいると知ってからどれだけの月日を過ごしたのだろう。

今日、ようやく念願叶って彼に会うことができる。緊張と興奮で、子どものように夜も寝られなかった。30歳を過ぎて、ようやくフランスに出て来て、毎日が夢のように過ぎていく。 雑誌や誰かの作品で見ていたフランスの街並みは、やはり自分の目で見ると全く異なったものになる。

日本とは違った気風の面々にも、当初は驚かされたが、芸術を愛するという意味では共通する部分もあり、それらに呼応するように言葉を交わす楽しさも覚えた。

かねてから僕は、ピカソとマティスこそ現代最高の画家として尊敬しているから、ホテル・レジナに到着するまで大いに緊張していた。そこには、マティスの家があった。ホテルの一つのフロアを借り切っていたらしく、とても広いスペースだった。

女中さんに案内されて応接室に入ると、そこにはクールベの「セーヌ河畔のお嬢さんたち」が無造作に壁にかけてあった。その絵は、僕が美術学校へ入って間もなく授業で模写した印象深い作品だった。マティスのような画家でも、クールベやセザンヌが身近に置いてあること目を丸くした。

美術品や近代文明の遺品などが並ぶ廊下を挟んで、南側にアトリエや小鳥たちのいる部屋が並び、反対側は寝室や居間があった。小鳥の鳴き声を聞きながら、部屋の周囲を見回していると、そこにマティス先生が入ってこられた。にこやかな表情の先生のおかげで、緊張と興奮は不思議と収まっていて、まるで友人に再会するかのような気軽さだった。

アトリエは、まるで先生の絵の中に入り込んだようだった。真っ白く塗られた壁、床は目の覚めるような黄色い絨毯敷きで、作りの良いテーブルの上には、先生がよくモチーフにされている大きな手のような形をした葉を広げた植物の鉢植えが並んでいた。

ニースの射るような日差しが壁を照らし、そのコントラストに、先生のこだわりを痛感せずにはいられなかった。なんという空間。絵を描くということが創造的である以上、環境も創造していくことは、僕が思っていた以上に大切なことかもしれないと思った。

先生のアトリエには、描きかけの絵がいくつも無造作に立てかけられていた。どれも額縁などに入っていなかった。人物の絵などには、ほとんど完成していると思われる絵でも、顔の部分だけ拭き取られて消されているものがあった。

先生は、全部描き上げたとしても気に入らない部分や、悪い所があると消したり削ったりしてブランクにしているようだった。そして考えに考えて、パッと目、鼻、口を描いて仕上げるらしい。

「毎日見ているのだが、どうやっていいのかわからないのだ」

あのマティスが、こんなことを言うなんて…!僕は驚いて目を瞠った。先生と僕の目の前には、風景が完成しているのに人の部分だけが消えている、大きな絵が掛かっていた。先生のその言葉に、僕は何かを教えられたような気がした。絵を描き上げるということの意味や、こだわりと探究心、そしていつでも考える思考力に、まだまだ僕には足りない力があるなと思わされた。

先生はパリにもアトリエをお持ちだと、別れ際に聞いた。これ幸いと、自分の作品を持ってパリに先生を訪ねた。床の上には肖像画が10枚ほど順番に並べられており、鉛筆描きのスケッチだった。最初は、写実的な作品だったが、次第に余計な部分が削がれ、線だけの絵になっていった。最後の作品は、これ以上ないほどに単純化されて、丸を描いた中へ目鼻を入れたような画面だった。

自分の作品を見てもらおうと、何点かを丁寧にしたつもりで額縁に入れて持参したが、先生はそれを叱った。「額縁に入れなければよくみえないような絵じゃだめだ」そういえば、アトリエには額縁はなかった。「額縁は絵を買った人がつけるもの。画家はただ描けば良い」と言われてしまった。

僕の絵を数点見た先生は「ピカソを好んで描いているのか」と尋ねた。「尊敬している画家の一人で、とても好きです」と答えると、先生から返ってきたのは驚くべき言葉だった。

「お前の絵はうますぎる」

褒められたのではない。これは、ピカソの影響を受けて描いたことがありありとわかるような、つまり自分の絵になっていないということなのだった。僕はとても恥ずかしくなった。自分の絵が描けていないとは、人に良く見てもらいたいと思うために描いていることに通じてしまう。

思ったことを素直に虚飾のない姿でぶつけることこそ一番大切なのだと、先生は教えてくださった。この言葉は一生私に残り続け、そしてさまざまな場面で大きな教訓となって、叱り続けてくれるだろう。

そんなこともあって、先生からの批評は一切なかった。どれを見ても「悪くない」と言われるだけで、具体的な描き方のようなことはついぞ口にしなかった。絵を見てもらう、それ自体が間違っているのかもしれない、結局は自分のものを作っていかなければならないのだと悟った。

しかし、今度はピカソを離れ、なぜかマティス先生の作風に似せた絵ばかりが描けるようになってしまった。いつの間にか、猪熊はマティスだ、などと言われてしまうようになってしまった。

パリで足繁く通っていた画廊で、ピカソの個展があった。ちょうどドイツとフランスの間で戦争が始まった頃で、時節柄なのか、彼の作品にはろうそくを使った静物画が多くみられた。画廊にほかの客はおらず、僕と妻だけだったが、そこに大きな犬を連れた男が現れた。折りからの雨で、長い髪が額に貼り付いて、大きな目がギョロリとその間からのぞいていた。

神様が降臨されたら、こんなに興奮するものだろうか、そのくらい僕と妻の興奮は激しかった。その男こそ、ピカソであった。大きな磁石に引きつけられるかのように彼の前に歩み寄った。お辞儀をすると、彼もベレー帽を外して日本人ふうにお辞儀を返してくれた。緊張と混乱で、僕はひとことも言葉を交わせずに立っていたが、そばに居た妻が持ち前の熱心さをもって、下手なフランス語で一生懸命話しかけた。それをピカソは嫌がらずに聞こうとしてくれていた。

写真だけで知っているかたが、目の前で話をしている、それはまったく信じられないような光景だった。

ピカソやマティスに出会えたことは、パリ時代の最大の収穫だった。偉大な存在というのは、本人たちが意図していなくても、周囲の人々を覚醒スパークさせる。いうなれば、才能が爆発するための点火剤になる。

彼らの真摯な、いや命を賭すように作品に向かう姿勢を目の当たりにして、自分に与えられている才能は、大きさに関係なく、はばかることなく燃やし尽くさねばならないと、痛感した。僕も彼らのように、子どもに返ったように純粋で自分自身にしかできない世界を作り出したいと強く思ったのだった。

そんな僕の思惑など素知らぬ世界は、戦争という争いを広げていた。比較的安全な田舎で、仲間と暮らしていた時期もあったが、いよいよパリも危ないという報せとともに、日本に帰国するための最終便ともいわれていた白山丸に乗って帰国の途についた。フランスに来たときには、自分の作品だけを持って来ていたが、帰りはマティス先生の作品と運命をともにすることになった。およそ3年にわたるパリでの遊学であった。


1950年 猪熊弦一郎

日本が戦争に負けて、何かもを失ってしまったような数年間を過ごす間、僕は手に入る限りの絵の具を集めては、緩やかに創作活動を続けていた。戦争をしている間、戦地へ赴いて見た光景はむごいものもあったが、とりわけ南国の異国情緒あふれる景色は僕を楽しませてくれた。芸術家の目は曇らなかった。

フランスから日本へ帰国して、南方へ行って、命を助けてもらって…5年も画家として生かしてもらった。戦争と芸術の関係を論じるのは甚だ難しい。僕も、あの混乱と揺れ動く正義のなかでは、自分のできることを向こう見ずに進んで行ったこともあったかもしれない。特に、南方への取材のための派遣はかねてからの好奇心だけが頼りになって、死とあまりにも近いところにいたと、後から恐ろしくなった。

その年の春、僕の大学時代の同期の紹介により、助手として山下君が、アトリエに来るようになった。

山下君はかねてから僕の作品を研究していたと言い、藝大に入りたかったが頭も腕も足りていなかったと謙遜していた。彼の作品は、やはり僕の作品をよく観察して作られていることが分かるほどだった。いつかのマティス先生の言葉を思い出した。

アトリエには、仲間たちも含めて多くの画家がやってきているが、山下君は突出していたように見えた。山下君の作品はまた僕のそれに似ている以上に、新しい時代のようなものを感じさせた。タッチも優しく、色使いは明確というよりもぼやけているが、それを補ってあまりあるほどの構成力があった。

画面に満ちる優しさがあった。いつまでも見ていたいような、懐かしさと温かな光は、ほかの誰にも描けない絵だった。

上野駅に僕の作品を、と言ってくださった国鉄からの話は、とても嬉しかった。アトリエには大勢の国鉄職員が来て、みなそれぞれに挨拶をした。終戦から時が経って、日本の社会も立ち上がり、経済も復調し、何もかもが新しく生まれようとしていたのかもしれない。設置する場所が、改札口の上の壁だと聞いて驚いた。

上野駅は大きな駅だ。多くの人が使っている駅だ。僕が卒業した東京美術学校がある駅だ。

東京が憧れのまち、見たことのないまちだとしたら、東北から出てきた彼らの故郷は、見たことのある場所、懐かしい場所だ。懐かしい景色を思い起こすような、故郷のような、温かく励ますようなものが描けないだろうか。

大きな作品だったので、アトリエでの制作を諦め、場所を探した。川崎の津田山にあった工芸指導所に出入りしていたこともあって、その隣にあった工場跡地を借り受けることができて、そこに足場を組み制作を始めた。絵の具も、道具もなかなか揃わず、またガラスが一枚残らず破れてしまった工場は寒く、制作のために囲いを作った四畳半ほどの場所にストーブを焚いて、手を温めながら作業した。

ある日のお昼頃、赤ん坊を抱いた若いご婦人が来られた。がらんどうの工場に、赤ん坊の泣き声が反響し、命の音を聞いたような心地がした。真っ赤な布に包まって真っ赤な顔で泣く、その赤ん坊の父親こそ、なんとあの山下君だった。結婚していることは知っていたが、小さな赤ん坊がいたことは知らなかった。山下君の住まいは、工場のすぐ近くにあるとかで、陣中見舞いにやってきたのだった。

「先生、この子、将来は先生や山下のように絵描きにさせてもいいでしょうか」

ご婦人が微笑みながら赤ん坊を見つめていた。山下君の作品から感じられる、優しさの正体が分かったような気がした。

翌年、まだまだ寒い中だったが、ようやく作業が完了した。

僕にとって、上野駅は母校があるだけの駅だったが、大勢が東京を目指してやってくる駅だった。それは、東京中で一番気の毒で不幸せな世相を反映している場所のようだった。そんな暗い世界にある壁画である。明るい色彩と単純な形で、毎日この駅を通る人たちの生活に、希望と喜びを与えたいと考えながら描いた。

題は「自由」ということにした。

全体を空や海のような青い色で塗り、そこに様々な人や動物を描き込んだ。さまざまな色合いの景色であるべきだったが、絵の具が揃わないこと、細かく描き込むよりも、見上げた時の印象や、これからも残していく壁画としての役割を考えて、単純な形や色にした。

駅に運ぶため、作品の搬出作業をしていると、突然人が駆け込んできた。

「誰か!おいみんな、あっちに頼む!……先生!山下君が!…あの…荷崩れがあって…」

悲痛な声が聞こえてきた。トラックの荷台に積み込んでいる途中で、突然何枚もの板が倒れてきたところに、作品を支えていた山下君が下敷きになったようだった。大勢で山下君を助け出したが、大変な重さがかかり、何本もの骨が折れているようだった。ほとんど意識のない山下君が、うわごとのように「ありがとうございました」と言ったのが、僕の聞いた最期の言葉になってしまった。

上野駅に着いてすぐに設置場所を確認すると、現場にいた国鉄職員たちに挨拶をし、事情を説明した。作業の途中だったが、山下君の運ばれた病院に駆けつけた。

病室には、ほんの数日前に工場で見送ったご婦人の背中が見えた。赤ん坊におっぱいをあげているようだった。僕は、しばらくそのままでいたが、声がかけられず、逃げるように上野駅に戻った。


1968年 藝大生

「明日の準備、ちゃんとできてるの?」

「大丈夫だって。もう心配しすぎ。」

母は私に、もう何度もしている確認をした。明日は、東京藝術大学の入学式の日だ。受験のための勉強やデッサンの猛練習の時期が懐かしく思い出される。ようやく、日本の最高峰の美大に通える日がやってきたのだった。

美大に行きたい、といったときの母の表情は意外なものだった。全然、驚かなかった。むしろ、とても喜んで応援すらしてくれた。ただ、うちにはあまりお金がないことはわかっていたから、私は藝大だけを目指している、とも伝えた。

「お父さんがね、どうしても東京藝大に行きたかったけれど、画力が足りなかったと嘆いたことがあってね。藝大を卒業していた画家さんにあこがれて、その道を目指したのだけれど、ダメだったと笑っていたっけね。」

母は、私が物心ついたときから、亡くなってしまったお父さんは画家だったと教えてくれていた。私が絵を描くことに興味が沸くのも当然で、将来のやりたいことに「画家になる」という選択肢が生まれるのも全く不思議ではなかった。お父さんの作品は、いくつかあったらしいけれど、家に飾ってあったのは1枚だけだった。母は、有名な画家の助手をしていたから忙しかったのよ、と繰り返していた。

「入学式の前日にこんな話して、なんだかすまないけれど、お父さんは事故で亡くなったってことは、前にも言っていたでしょう。それは、お父さんが助手をしていた画家さんの大きな作品を運ぶときに起こったの。そのときの作品が、上野駅にあるのよ。一度観にいったけれど、お父さんが描いたわけでもないのに、どんどん涙が溢れてきちゃって。だから、思い出しちゃって、お母さん、上野駅に行けないのよ。」

幼いころ、上野動物園に行きたいとせがんで泣いて困らせた時の母の顔が浮かんだ。動物が苦手、なんて嘘をついていたけれど、本当は上野駅に行けなかったのだ。思えば、国立西洋美術館も母と一緒に行った思い出はない。お父さんが巻き込まれてしまった事故が、作品を運ぶときだったなんて。しかもその時の作品が、駅にあるって、どんな作品なのだろうか。

入学式は、想像したものと違っていた。この国の最高の芸術教育機関として、厳粛な雰囲気で、これからの学びと規律のある学生生活への決意を固める、そんな真面目な式だと考えていたのは、私だけだった。

総長の祝辞こそ堅苦しい雰囲気だったが、上級生の選抜によるオーケストラの演奏は、涙が出てしまうほどに美しく、また瑞々しい音楽だった。血気盛んな若者たちが、芸術に打ち込める環境と、遠くからでもその威容が感じられるような演奏家の先生方の指導を受けられるなんて、なんて幸運な学生だろうか。

学内に飾られていたのは、ほとんどが学生による作品と聞いて、これもまた驚かされた。たった一年で上達したのではない、それぞれに突出した才能があって、それがこの環境で悠々と開花しているのだ。

私はこんなふうに描けるのか、少し不安になった。明日から通う大学というよりも、音楽ホールや美術館から帰るような心持ちで校舎を出て、私は幸せと期待で震えているように感じられた。

東京藝術大学に入学できたこと、お父さんも喜んでくれているだろうか。

上野駅の中央改札の上には、大きな壁画があった。横に長い壁画で、展示場所が人の頭の上にあり、その大きさがはっきりとはわからなかった。ただ、青い画面がとても明るく、駅の構内なのに空が広がっているような明るさがあった。人物たちの表情ははっきりと描かれていないが、そこには生きている人たちがいた。作品の隣を通って床に到達する石柱には、作品名らしき鋼板が取り付けてあった。

「自由」

さまざまな乗客が行き来するこの場所に、自由という名の作品があること、奇しくも東京藝術大学があることは、偶然ではない気がした。自由に空間に配置された人間や動物たちが並ぶ壁面を見ながら、不思議な力強さを感じていた。

額縁に入る絵は、美しくその時を留めているものだけれど、壁画のように風雨にさらされるものは変化し劣化していく。それは、永遠の美しさを否定し、観る者にも変化を促す。新しいものを歓迎し、これまでのものを包み込むような、その作品は私の心を掴み続けた。


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