自分と家族と過ごす、余命半年 #書もつ
本をたくさん読んでいるとか、空想しがちとか、そんなことは関係なく結末が分かってしまうような作品があります。それは、死に至る病気を題材にした物語。特に僕たちに身近でこわい病気は「ガン」でしょうか。
毎週木曜日には、読んだ本のことを書いています。
主人公がガンになる、そんな話の結末は、概して「主人公の死」であることが多いと思います。さて、この物語はどうでしょうか。
とはいえ、カバーや帯の言葉を読めば、結末は分かってしまうし、そこに至るまではきっと辛いのだろうと思って読み始めてみたら、意外と明快な物語にフッと心が軽くなるような、なんだか相応しくないような気持ちになりました。
ある側面から見れば、これは理想の家族の形をしたホームドラマのよう。これがはじめての長編だなんて、しかもあの人だなんて、信じられない。
象の背中
秋元康
家族の形、理想の親子、命の期限、死が近づく者の心境、そんな重厚な話題を織り込みつつも、重苦しくならないのは、言葉選びにセンスというか配慮が感じられるようだったからかも知れません。
誰だって死は怖いけれど、それを終盤まで言葉として読ませないことで、読み手が感じる怖さや悲しさを排した、中の男の話として分けて考えられるような、サラサラとした感触でした。
主人公の一人称、しかも「俺」で語られる生き様は、とてもみっともないものかも知れないけれど、死を前にしてこれだけのことを決めて動いて、語れるような人生なのは羨ましさを感じました。
作中、主人公の紋切り型の考えが何度か語られて、慣れるまでは不思議な感じがしていましたが、読み進めていくにしたがって、人物像が明確になっていきました。読み手とはちょっとズレた視点であっても「そんなもんか」と思える工夫でした。
気持ちとは離れて肉体が衰弱していく様子、気持ちが鮮やかに変えられてしまう様子、それでも筋の通った気持ちも描いてあるのは、作家の後悔の念からでしょうか。
作家の描く人間関係は、とても魅力的ですし、そこに作家の夢が語られているような、テーマとは裏腹にとても健全な(うまいこと表現できない・・)作品でした。
ひとりの男の心に寄り添い、読み手も物語の結末を思う時、果たして家族とともに過ごせることのありがたみを痛烈に感じ、感謝の気持ちが湧いてくるのでした。
文庫版には、作家と児玉清さんとの対談が収録されていました。児玉さんの小説愛に溢れた褒め言葉に、謙遜しつつも自信の見える作家のやりとりは、一読の価値がありました。児玉さんの珠玉の言葉の数々に(僕が)打ちのめされて、対談の数ページだけでも、投稿が書けそうです。
「書くことに正解はない」「書くことは曖昧模糊としている」
そんなふうに語る作家の言葉は、こうしてnoteに毎日投稿をしている僕にとって激励でした。書く理由だとか、書いていく動機は、決してずっと同じでなくてもいいし、こんなふうにエッセイなら尚更自由に書いていくことの方が、健全なのかも知れないなんて思いました。
読み終えると、やはり自分や家族のことを考えてしまいます。
果たして自分だったらどうする(どうなる)のか・・僕が生きるって何をしている時なんだろうか・・日々をもっともっとちゃんと生きていないと、この主人公のように明快な最期は迎えられないと、だいぶ苦い薬を飲まされた読み終わりでした。