なぜか読めない本
いま、本を読んでいます。
でも、なかなか読み進められないのです。字が異様に小さいとか、言葉遣いが難しいとか、下から上に読むから、とかではありません。
それは、じっくり考えながら読んでいるからであり、いちいち気になる思考の流れがあり、共感によって推進力を得たかと思うと、途端に壁にぶち当たりそうになって(当たると本を閉じちゃうので、気配を感じてスピードを落とす感じ)、じわじわ読んだり。
それはまるでジェットコースターのようで、それとは全く違う気もするのです。長い坂を上り詰めて、スッと走り出すけれど、またすぐに坂があって。なんだろうこの感覚は。
嫌なら読むのをやめればいい、でもやめられない。
それは、きっと一度挫折したという苦い経験があるからなのです。以前、筆者の主張があまりにも衝撃的でページをめくれなくなってしまった、という記事を書いたのですが、まだその本に当たっています。
巷では、読んでよかった!それこそ現代の社会を描いている!みたいな評価があるように見えていて、そういう分かりやすい評価は、まえがきを読めば分かったのです。
ようやく半分。
普段から比べても遅々としているのです。
この記事は、そうやって読み進められないことを書いてみて、自分がなんでブレーキがかかっているのか発見できるかもと思って書いています。
本を読むのにこんなに考えないといけないのは、久しぶりの感覚です。本を読んでいる自分が分からなくなっているのかも知れません。
でも、それは小説のような全く別の世界を生きる物語ならば当たり前のこと。この本は、改めて扉を見たら、哲学あるいは倫理学の作品でした。
無知の知、いやそういう次元のことではなくて、むしろ知っていることを改めて言語化しているような、いわば当たり前を問い直しているような印象なのです。
だんだん、見えてきました。
僕は本を読むときに、知らず知らず救いを求めているのです。何か知りたい、何か認めてほしい、何か慰めてほしい。この作品にだって、それらを満たすような言葉は見つかりました。でも、何故か腑に落ちないのです。
いい加減、犯人は誰なのか名乗り出てほしい。
ひとは文字を読むときに、音読をしていることが多いです。僕もそう。書くときにだって、読み上げているのです。そういう読み方のとき、口調はとても大切になってきます。
口調は、ときに人格だから。
多くの哲学の作品と同じように、この作品もまた、随所に具体例が施されています。なるほど、そういうことか。それなら分かる。でも、なぜその後が続かないのでしょう。
あ、そうだ。
きっと、そういうことだな。
本を開いて、文字を追う、頭の中には自分の声らしき音読。これが、ブレーキの原因なのです。口調が合わなくなっていました。noteで投稿するとき、普段話すとき、相手のいる言葉には敬意が含まれるべきだと、いつの間にか意識しなくなっていました。
毎日のように書いて、その口調を変えないようにしていたら、頭の中の口調すら違和感を感じてしまうくらいになっていたのです。
そして、さらに存在感があるのは、筆者がどこか自分に似ていると言う確信のような気持ちなのです。考え方がとても似ていて、迷いや疑いの意味も分かるし、あーそっち行ったら落っこちるよー、みたいなツッコミすら入れられる感覚。
もちろん、筆者の思考の数々はとてもレベルが高く、テーマに迫っていく方法だって専門的であり、到底僕が真似できるものではないのです。
でも、似ている。僕に。
だから、読めないのです。
きっと読み終えたら、感想が書けるかも。