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推して知る、聴いて読む #書もつ
相変わらず、聴く読書を続けています。
耳から入ってくる音が、人の声になり、その声が物語を語るなんて、子どもの頃の読み聞かせ以来では?なんて思うと、不思議なものですね。
聴く読書の面白いところは、目の前の景色は普段通りなのに、耳から奥の環境は本の中にあるところかも知れません。
これは個人差がありますが、僕は視覚よりも聴覚が優位にあるようで、耳から入ってくる音は文字としては聞こえてこないことが多いです。人によっては、音を文字に変えているらしいけれど、あまり僕は気にならないのです。
そんなこともあって、音楽という手段で聴覚を使っていたけれど、聴くということを積極的に使ってこなかったなぁなんて思うのです。
さて、聴く読書、自己啓発やビジネス本など、小説ではない作品に向いているように思っていました。しかし、試しに読みたかった小説を聴き始めたら、とても良かったのです。
それは音で聴くからこそ味わえる体験。
主人公が話しているような、ピッタリと寄り添って、現場で話を聞いているようでした。
推し、燃ゆ
宇佐美 りん
推し活に励む女性、境遇はドラマチックに描かれていますが、実際の行動や考え方、描写されている周囲の景色は、ふつう、だからこそリアルなのです。
さらに声が主人公の女性のように聞こえてきます。ネットの声も、同じ人が脳内で再生するようなイメージ。考えていることと表情が違う、それが声色でも分かってくるのです。
小説のタイトルは、すぐに答えが出ます。
主人公が長いこと推している“推し”が、燃えて(炎上)しまうところが始まり。メディアで作られている人物像と、本人の人間性は違うわけです。主人公は、それを解釈するために、健やかなる時も病める時も“推し”を推しているのです。
映像を見るだけでなく、発言をメモし、それらを考察した記事をブログに書く。応援だけでなく、解釈していくことは、単なる“好き”とは異なる“推し活”の姿なのかも知れないと、ハッとします。
生きるための推し活、は冗談でも笑い話でもなかったのです。主人公にとって、推しがいることが生きる理由であり、推すことが生きていく意味なのでした。
読者は、序盤には「あぁ推しが叩かれているのがショックなのね」なんて分かったように構えてしまうものです。
しかし、それはすぐに間違いだったと気がつくののです。ひたひたと語られる、やや冷めた温度の言葉だけれど、触ると火傷するような狂気じみた気持ちにも気がついてくる描写にドキッとします。
推しの立場に立てば、その喜びと恐怖と、諦めと辛さに目を覆いたくなっていきます。何が“有名税”だ、何が“叩かれているうちが花”だ、と言いたくなるのです。こわい。
昨今、当たり前のように、麻痺しているような誹謗中傷の報道が、物語にも当たり前のようにさらりと登場して、特別なことではないことを感じさせるのです。
芸能人の華やかな存在が、誰かの生きるを支えていることは容易に想像できますが、“推し”と呼ばれている本人はきっと怖さも感じているだろうなと思いながら読みました。
小説のようなエッセイのような自伝のような、日記のような。巧みに比喩が編み込まれており、文学的な想像力を掻き立てながらも、現代を冷静に見つめた視点の強さにも心が掴まれる作品でした。
僕は男性だから、読書する時の頭の中の声は自分の声、男の声。でも、女の子の話を女の人の声で聞くことの説得力と心地よさに、文字で読まなくてもいいなと思った。すごいぞ、聴く読書。
この糸電話、本当に聞こえているのでしょうか(笑)かわいいサムネイル、infocusさんありがとうございます!
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