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私流「noteが書けない」を脱却するたった一つの方法

少し考えるだけで、エッセイとして書きたいネタがたくさんあるわたしにとって、「あ、note書けない」と思ったときの衝撃は大きいものだった。いつくるか、いつくるかと、少し待ち構えていたこともあったけれど、その瞬間がくると意外と受け止められない自分がいた。

わたしにとって「noteが書けない」というのは、ネタがどうこうではなく、自分の紡ぐ言葉が嘘臭くて、綺麗事のようで、大嫌いで、なんだか気持ちが悪いのだ。

逆にネタはたくさんあるのに、そのあとに紡ぐ言葉が見当たらない。自分自身にいくら「どうせ誰も読まないんだから、好きなように書きなよ」と慰めても、効果はなくて。

いつも通り、わたしの頭の中で浮かぶ言葉を一つひとつ、まるで楽譜をまる覚えしてピアノを引くように、一番初めの文章を書き始めたら止まらずに書きたいのに、なんだかひと段落ごとに、見返してしまう。

それがなんだか気持ち悪くて、思いっきり書けない。

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わたしは「あ!これ書きたい!」思い立った時にバーっと書いてしまうから、エッセイを書いている途中にLINEがきたり、Twitterを眺めることなんかしない。なんなら、好きじゃない曲が流れても気にしないほど、わたしのこの流れるキーボードを打つ手を止められたくないのだ。

それなのに、「あ、書けない」と思って、後で書こうと下書き保存をしてしまう。一度寝かしてしまう、この行為がもっとわたしのエッセイをダメにするのだ。

いくら書けないからって、一度寝かしたって書けるはずがない。最初の文章と同じ熱量で書き続けないと、もうその感情は二度と戻ってこないし、どこに着地すればいいのか、迷子になってしまうのだ。

迷子になってしまったらもう終わりで、その下書きが二度と開かれることはない。もう何度も経験しているから、わかっている。また、同じようなネタで一から切り口を変えて書き始めるしかないのだ。

だから、自分の紡ぐ言葉が見当たらなかったり、気持ち悪いと感じてしまった時、どうしたらいいかわからなかった。実は、ここ数日くらいそんな感じだったのだけど、なぜだか書きたかった。

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そこでわたしは、「気持ち悪いな〜〜〜」と思いながらも、なんとか文章にして整えた。いや、整っていないのに1,000文字を超えたから、公開設定ボタンを押した。案の定、PVも少なく、いいねも少ない。

そりゃそうだ。心がこもっていないし、きっと誰の心にも響かない。ああ、失敗だ。

だけれど、あの時、書くことを止めなくてよかったと思った。今も若干の気持ち悪さは残りながらこのnoteを書いているが、あの時立ち止まって下書き入り、いわゆるお蔵入りしていたら、きっと今、こうやって「noteを書けない気持ち」というタイトルではエッセイは書けなかったし、今ももしかしたらエッセイが書けていないのかもしれない。

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要は、書き続けることが大切だということだ。エッセイが大好きで、書くことが好きになった今、わたしはどんなに気持ち悪いと感じても、自分の文章が嫌いになっても、書き続けなくてはいけないのだ。

それがどんなにレベルが低くても、完成度が低くても、完璧を目指していたら下書きばかりが並ぶだろう。天才だっていきなりポンっと出したものが売れたわけじゃない。たくさんのボツ作品があって、その中で誰かが見出したものが光り輝いたわけだ。


だから、わたしの文章がいつどこで報われるかわからないけれど、わたしは書くことが大好きだ。だから、「noteが書けない」、いや、「書きたくない」と思っていても、書き続ける。それがわたしにとっての「noteが書けない気持ち」から脱却する唯一の方法なのだ。


写真:桃(@XxPeach
場所:ミレニアム バンコクからの夜景(タイ)

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