雑文 #247 村上春樹の「猫を棄てる」
村上春樹氏のエッセイ「猫を棄てる」を読んだ。
出版から一年経った。私は新刊が出れば飛びつく春樹ファンなのに、手を出せなかったのはタイトルのせいだろうか。それとも「父親について語るとき」というサブタイトルのせい?
いや、私は最近趣味に前のめりにならない。以前のように、速く濃く吸収しようとがっつかない。なんか、クールだ。それも自分にとっては変なことなのだけれど。
とにかく、出版から一年以上経って私はその薄い書を読んだわけだ。
「海辺のカフカ」などを読んで思うように、春樹氏にはファザー・コンプレックスがあるんじゃないかと予見してた。
この本はファザコンの深い内省の書なのだと、勝手に予想してた。
しかし蓋を開けてみるとそれより、春樹氏の父の自伝(親伝?)のようであった。
感情的なことはさほど書かれていなかった。
それは好もしくもあった。
春樹氏の父親は、戦争に翻弄された世代であり、その歴史を描くことの意味があった。
戦争の話題って、若い頃は「重いし暗い」と避けてしまいがちである。
けれど私も最近は、そこには深くて広い意味や発見があると思うようになった。当事者の口から聴ける言葉は、貴重である。
たとえば私の両親は戦争を知らない。言葉を聴きたければ、祖父母に聴くのがよかったが、他界してしまった。それに子供すぎた私は当時その話を聴く耳を持たなかった。
だけどほんの少しだけ思い出せるエピソードがある。春樹氏は父親からのそういったエピソードを繋いで調べたうえで、話をまとめている。
お父さんは、多分に、苦労のあった人生だったようだ。戦争を体験した人で、そうでなかった人はいないのだろう。
「ねじまき鳥クロニクル」での内モンゴルでのシーンが過ぎる。
あまりにも残虐ながら熱心に読んでしまう、あのシーンたち。
戦争と父親について熱く語っているのに対して、春樹氏個人と父親についての語りはクールだ。
だけど、もし私が父や母とのことを何かに記すとしたら、きっとやはりそうなるのだろうと思う。象徴的な記憶の断片(猫を棄てること)などを語り、彼らの生きてきた軌跡を語ることだけで終わるだろう。
春樹氏の場合はどうだかわからないけれど、私の場合は、あまりにも圧倒的な影響があるからだ。私を形成するものの中に、拭い去れない経験や影が存在している。彼らを語ることは自分を語ることに近すぎて、いやむしろ自分を語る以上に内面を突きすぎて、痛くて語れない。
だから猫を棄てるエピソードにしたのだろう。それをタイトルにもしたのだろう。
ちなみにそのエピソードに救いはあるので、猫好きな人は心痛めないように。
追記:イラストがすごく良い。ノスタルジックで心に沁みる。思わず自分の過去の光景を振り返ってしまう。