両親が離婚をして富山県から新潟県に引越しました。 転校しました。 その頃はもう生活の変化にいっぱいいっぱいで 勉強もやる気なく淀んだ気持ちでした。 五泉小学校というところに転校した。 給食の瓶の片付けがわからなかったり いきなり歓迎会をやられたり よい友達も出来なくて暗い思い出。 そこは勉強が富山県より遅れていて 算数の問題をぱっぱっと解いたら僻まれて嫌味を言われたりするので わざと出来ないフリをした。 辛かったのは離婚して父がいないことを学校の人に 言えなかったこと。 その
最近は離婚とかシングルマザーは珍しくもないけど ン十年前の田舎では 片親は珍しかった。 私が小学生4年のころ突然母から 「出ていくから」と聞かされて わたし 思わず 「お別れパーティしよっか」と言ったの。 本当はすごくショックで悲しくて仕方なかった。 もともと仲良しな夫婦、家族ではなかったけど 自分の力じゃどうしようもないこと。 いま思えば悲しさを隠すため。 離婚は悲しかったです。 仕方ないけど。 調停になって、親権は母になって 子どもの私に「お父さんお母さんどっちについ
子どものころ虐待など悲惨な環境でを経験し 大人になると 個人的な意見ですが 自己肯定感が持ちにくい気がする。 ネガティブフィルターというか どこにいても どんなに経済力をつけたり まわりに人がいても どこか、どこか否定的だったり 信じきれないというか 安心して生きられない。
振り返るって大切 何十年経ってようやく きっかけは出会いから 時代は変わる いつかはみんなしぬ
私が受けてきたことは 虐待になるのかな
前回のつづき。 Y子先生が帰った後、父が鬼の形相で帰って来ました。 そして「こんなもの!」と買ってもらったケーキを庭に投げ捨てました。 ぐしゃーっとなったクリーム。 「こそこそと、こんな物食べて嬉しいか!」と怒ります。 何に怒っているのか全くわかりません。 後から知ったのですが、Y子先生は私と母の様子をみて空しくなったのか なんだか知りませんが父に 「わたしは、すももちゃんのお母さんになれる自信がない」と泣きついたそうです。 は?お母さん?なんで? で「?」がいっぱいでした。
というと一見裕福に大事にされているイメージありますが いま思えば父がたんに「若い子」を家に呼びたかったんです。 のちに父と再婚するY子先生もかなり若く 当時父と20歳くらい歳の差があったと思います。 色白で細身、どこか幸薄そうでも気丈な雰囲気。 最初は勉強を教えてくれていたのですが なぜか二人で時々外に外出しました。 私はY子先生の家に一度遊びにいったことがあります。 それはもう何もない質素なお部屋でした。 後に知ったのですがY子先生は家出して一人暮らししていたとのこと。 大
家庭内ですったもんだが起こった頃 私は 唇の皮をむく 髪の毛を抜く 行為がやめられませんでした。 学校の先生からは血だらけの唇をみて「風邪?ひどいね」 と言われました。 また、歯茎を搔きむしる行為。それを見て先生は 「赤ちゃんみたい」と言いましたね~ 集会や活動のため学校に私を迎えに来たりしていた母と 先生がなにやら話し合っていることがありました。 でも、家庭環境のことを学校の先生が何か言ってくるわけでもなく (言えなかったのかもしれない) 成績はぐんぐん落ち、身なりも汚くな
宗教にはまった母は暴走しつづけました。 それを信じないものは悪。 私は父に嫌悪感をいだいていました。 いっしょにお風呂にはいるのがいやでいやで仕方なかったです。 泣きながらお風呂場からでて母に訴えたこともあります。 子どもなんて、小さな存在なんです。 子どもの声なんてもみけされます。 父は、私がわがまま?を言うと床の間につれていき 正座させとことん説教します。 善い悪いではなく、自分の意見に反さないように 「わかりました。ごめんなさい」と言わせるまで 瞬きさえも注意するほどし
私が小2か3くらいから母がある宗教にはまりました。 週に何度か「兄弟」と言われる人が聖書を教えに来ました。 男性は兄弟、女性は姉妹と呼び合う宗教です。 母はその人が来ると嬉しそうにウキウキしていました。 学ぶ時間がおわるとお茶タイムで、ケーキがだされお喋りするのが 子どもとしては楽しかったです。 何よりも母が笑っている。楽しそうにしていることで その宗教がどうのは考えませんでした。 母が笑顔になるなら正しい。 大きな大会や、毎週の集会、伝道につれていかれました。 正直、つまら
母が父をこう表現するわけは 中の人ではないとわからなかっただろうな。 父はとにかく「年若い人」が好き。 外面はいい。 いま高齢者虐待では 身体的、心理的、ネグレクト、性的、経済的 があるとききますが 子どもに対しては「経済的」以外の4つ。 思い出そうとするとモヤがかかって 気持ちわるくなりますが 私はこの中の2つはあてはまったと記憶しています。 子供のころ愛情を与えられず育った人は 根っこの部分でもろい部分があり 大人になってからその暗い、もろい根っこの部分が ぐらぐらしてく
富山市の小さな一戸建てに家族で住みました。 物心ついたころから母の愚痴のような 自身の辛かった体験を聞かされて それを心の中で物語のようにつくりあげた。 自分に対しての「ひどいこと」ではなくても ひどいこと、は映像のようになって 暗く大きくなってくる。 父は家庭的じゃない、とよく母が言っていました。 外から見ると 一戸建て、塀だけは立派なアンバランスな庭 ひとりっこ 何不自由ない普通の家庭に見えたと思います。 一旦、母の受けたつらいことは この辺までで書くのを終わりにします。
母は複雑な家庭で育ち まま母に虐待をされていた。 その内容を小学生低学年のころから聞かされていて かわいそうなおいたち かわいそうな母 自然と、心は母の味方をしなきゃ そう考えていました。 いま、現在は「虐待」という言葉はあるけど 当時は何というか、人には言えないような 隠さなきゃ、消化しなきゃいけないような そんな感じでした。 母が自分自身のかわいそうな出来事を話しはじめたのは 家族で富山県に引っ越してきてから。 中華やをたたみ、父はサラリーマンになり 母が専業主婦になって
本の付録が大好きで楽しみで 本を開いたときのにおいが大好き 本好き 絵を描くのが大好き 小さな中華屋の奥の一間でずっと画用紙に絵を描いて 厨房でごはんを食べ その頃、母は本当によく働いていた。 出前注文がくると、わたしもお供した。 みんな健康でよく働いて好きなことしていた頃。 近所に神社があり「お宮さん」と呼んでいた。 神社の木の香も大好き。 場所は朧気だけど、いつかいってみたい。 いまは有名なお酒「越乃寒梅」つくっているところが 近くにあったと思う。 いまおもえば人生で平和
両親はその頃そんなに仲悪くなくて 父は厨房で作り 母は接客、出前、と忙しそうにしていた。 会話もちゃんとしていた。 私はいつも厨房で食事をとっていました。 にぼし、かつお、トリの出汁からスープを作っていて その時のにおいが忘れられません。 両親とも料理上手。 とても繁盛している中華屋さん(ラーメンとかオムライスもある)でした。 母は10代で結婚し 父は12か13歳くらい年上でした。 背が小さくかっこよくはないけど社交的。 調子よいことをよく言っていた感じの人でした。 その後、