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『もめんたりー・リリィ』序盤感想:ドンドンドーンとギルティだ!
2025年冬アニメの中で貴重なオリジナル作品として注目してきた『もめんたりー・リリィ』、第1話は個人的な評価基準をクリアして視聴継続中だが雲行きが怪しい。ここで序盤の感想をまとめようと思う。
(これを書いている時点で第4話まで視聴済。下記内容は本作のネタバレを含みます)
※前回の内容はこちら
キャラを大事に
物語創作論の「三幕構成」で有名なシド・フィールドの著書にこんな文章が出てくる。
若い脚本家の多くが、主要人物を最後に殺そうとしたり、極端な場合、出てくるすべての人物を殺してしまったりする。簡単だからである。だが、それよりもよいエンディングを書けるはずなのだ。
これを読んで様々な作品がみなさんの頭をよぎったのではないだろうか。
また、別の参考図書にはこんなことが書いてある。
思わぬ登場人物に人気が出た場合、一般的には活躍の場を加えるという方向がまず頭に浮かぶと思うが、必ずしもそれだけが選択肢ではない。むしろ、人気の出た人物をあえて途中で退場させる---つまり、非業の死を遂げさせるーーー方がより効果的な場合もある。
こちらでも、物語全体のシナリオ構成を見直すよりは、人気が出てしまった思わぬ人物には退場してもらうのが簡単だという含意があると私は解釈している。
最近になって、日本のアニメ業界に「皆殺しの富野」などという不名誉な肩書があることを知ったのだが、「もっといいエンディングを考えられるはず」という意見に私は同意だ。
視聴者の立場としても、物語で登場人物を死なせてしまう展開は安易な選択だということを肝に銘じて、作品に接したいと思う。
主人公かと思われた人物が
『もめんたりー・リリィ』の第1話を見た段階では、ゆりとれんげはどちらが主人公なのかわかりにくいと思ったが、まさかゆりがね。私からすると、この展開には乾いた笑いしか出てこない。
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上述の通り、ストーリー展開上の必然性を視聴者に伝えることなく登場人物を死なせてしまうのは安易な選択だと思う。まさか「エンディングじゃなくて、オープニングだがら斬新でしょ!?」とでも思っているのだろうか。
「物語の序盤では運の要素が強めに表現されてもOKのはずだろ?」
確かにそうだ。現実の戦いでは流れ弾に当たって戦死することはある。日本史上の有名例としては平将門がそうだ。
しかし、物語は現実をコピーするための舞台ではないはずだ。制作陣は『もめんたりー・リリィ』で何を表現したいのか? そのためにこの展開が必然だったのか? 私には全く理解できない。
第4話までを再評価
第1話視聴時点で『もめんたりー・リリィ』のポイントになると予想していた箇所については、
バトルシーン
制作陣と視聴者の認識が最も乖離してそうなのが、本作のバトルシーンだと思う。
放映前の予告PVや、本編OP映像でバトルシーンがド派手に描かれているが、この手の表現で作品の魅力を訴求しようとしているとすれば何かが間違っている。「バトルシーンが凄いからこのアニメ見たい!」と思う視聴者はどれほどいるのだろう?
(もちろん『マトリックス』ほどの斬新さがあれば別だと思うが。さらに言えば、『マトリックス』は映像表現だけでなくストーリー構成も優れていることが高く評価された作品だ)3分割烹
終末世界でのバトル中心のストーリー展開に、軽妙な会話で涼風をもたらすことが期待されたが、ここまでの料理シーンにその片鱗は感じられない。登場人物たちの願望
もし世界が元に戻ったら何をしたいのか? 登場人物たちの想いが見えない。終末世界を生き延びるだけで必死ということだろうが、ここでも中途半端なリアリティを持ち込んで失敗しているように感じる。
というわけで、残念ながら本作はドンドンドーンとギルティだ。第1話の評価が甘かったのかもしれない。辛口な感想中心となってしまったが、この反省を今後に活かしたい。