『逃げ上手の若君』物語の背景についてのトリビア
北条時行というマイナーな人物を主人公に据えたこの作品。実際の歴史を題材にしていても、当時のことで明確に分かっていることは限られているので、その他の部分を想像力で補えば、面白い創作物に仕上げることができる。
それを理解しつつ、描かれた時代の実態がどうだったのかを知っておくことは作品を楽しむ材料になると思うので、少しだけ紹介したい。
足利尊氏の裏切り
鎌倉幕府は足利尊氏の裏切りを予見していた、というか裏切りを恐れていた。当時、尊氏はアニメでも描かれた京への出兵にあたり、女子供まで家族親族をすべて連れていく準備を進めていたからだ。
そこで幕府は、
夫人と子供を人質として置いてゆくこと
幕府を裏切らないと起請文を書くこと
を要求している。
興味深いのは起請文の扱いだ。当時の人々は信心深い。嘘の起請文を書くことを気にした尊氏は弟の直義に相談した。すると直義は
と兄を説得したそうだ。
歴史作家の海音寺潮五郎は足利尊氏が天下を取ったのは、尊氏自身の才覚というよりも、弟の足利直義と重臣の高師直の力によると自説を述べている。上記の逸話にもその断片を感じ取ることができるだろう。
尊氏の不満
後で詳しく述べるが、この当時、鎌倉幕府の中枢を担う北条氏は武士たちの尊崇を失ってしまっていた。幕府はいつ倒れてもおかしくない状況だったが、足利尊氏が北条氏への不満を募らせていった背景には次のような逸話がある。
1331年、後醍醐帝の討幕の密謀が漏れ、鎌倉から笠置に向けて征討軍が組織された。当時、尊氏は父・貞氏の没後わずか12日で喪に服していたため従軍を辞退したが、幕府はきかず、強いて出発させたため、尊氏は幕府を憎んだ。
1333年、アニメでも描かれた尊氏の京への出兵にあたり、実際の尊氏は病中だったため出兵を断った。しかし、ここでも幕府はその願いを聞き入れなかった。
一昨年の事と合わせて尊氏は幕府の仕打ちを憤り、「本来はわが源氏の郎党だった北条氏ふぜいに威圧されるのは無念だ。こうなったら上京の後は先帝(後醍醐)に味方して六波羅を攻め落とす」と決意したと言われる。
こうした覚悟の出兵だったため、上述の通り、女子供まで全員引き連れて行こうとしたわけだ。
尊氏の庶子も犠牲に
上京した尊氏は幕府を裏切り、六波羅探題を攻撃してこれを落とした。これに合わせて鎌倉へ密使を送り、人質となっていた夫人と子供(千寿王、後の2代将軍・足利義詮)を逃がした。
一方、尊氏の庶子・竹若も逃亡したが運悪く、京の様子を探りに行って鎌倉に戻る途中だった幕府軍に見つかり、捕まって殺されている。
アニメでも時行と邦時の明暗が描かれているが、ちょっとの違いが人生の大きな違いになる厳しい時代だったことがわかる。
当時の鎌倉は坊主だらけ
少しさかのぼること1326年、執権・北条高時は病で重態となり、出家した。これは厄払いや忌除けの意味合いもあったのではないかと思うのだが、これに共して高時の家臣で出家する者が多かった。
出家と同時に執権も辞職した。後継になるつもりだった高時の弟・泰家だったが、執権には連署だった貞顕が就いてしまった。これに怒った泰家は抗議の意を示すために出家し、これまた家臣で付き従って出家する者が多かった。
ところが、重態だった高時が回復して権力を取り戻すと、執権になったばかりの貞顕が恐れて辞任してこれまた出家。これまた付き従う家臣が多かったと言われ、鎌倉はにわか坊主だらけになってしまったと「天正本太平記」に書いてあるそうだ。
アニメでは僧形の人物は高時の他にもう一人くらいしかいなかったように見える。上記の時期から数年後とはいえ、簡単に還俗できたのだろうか。ここは知識不足でちょっとわからない。
幕府の命運は尽きていた
歴史的にはここが重要だと思うのだが、この当時、鎌倉幕府は完全に傾き、命運は尽きていた。そこには様々な要因が複雑に絡み合っている。因果関係を理路整然とまとめるのは難しいが、おおよそ次のようになるだろう。
長引く蒙古問題
2度にわたる元寇の後も、元(フビライ)は日本攻撃を諦めなかった。日本側も3度目の攻撃に備えて、その後20年ほどは九州防備が欠かせなかったと言われる。これにより幕府の財政は傾き、御家人たちは疲弊し、不満が高まっていった。不足する恩賞
2度にわたって元寇を撃退したものの、日本は領土が増えたわけではない。功績のあった武士たちに恩賞を与えなければならないが、それに充てられる所領は少なく、ここでも幕府・北条政権への不満が高まっていく。増える訴訟と賄賂の横行
鎌倉幕府末期のこの時期、徳政令が複数回出されている。御家人たる武士たちの困窮を示す事象だが、生活が苦しいだけに御家人同士の所領争いなどの訴訟も増える。そしてこの時期、幕府内では賄賂が横行し、正当な裁きが行われなかったといわれる。
御成敗式目の制定に見られるように、本来の幕府の重要な役割はこうした訴訟を正当にさばくことにこそあったのだが、ここが崩れては何のための幕府か、何のための北条氏かということになる。
そもそも、源氏に変わって北条氏が実権を握ることができたのは、こうした正当な裁きをつける能力と才覚にあったのだが、それが失われてしまっては存在価値がない。武士たちが次の主君を探し、新しい時代を求める機運は醸成しきっていたと言える。
以上、いくつかの観点から『逃げ上手の若君』で描かれた時代背景に関するトリビアを取り上げて紹介した。アニメ自体は歴史に仮託したファンタジーなので、それはそれで楽しめばよく、私もこの先しばらく追いかけてみようと思う。
参考文献:いずれも海音寺潮五郎著
『武将列伝』収録の「足利尊氏」(文春文庫)
『悪人列伝』収録の「北条高時」(文春文庫)
『蒙古の襲来』(河出文庫)