貴方の浴びた風が、心地いいものでありますように
先週、人に縁を切られた。人として好きな相手だったし、これからも普通に接していくものだと思っていた。
何も告げられず突然の出来事で、せっかく友人が連れ出してくれたラーメンの味はあまり覚えていない。当日まで確かに連絡を取り合っていたのに、LINEの返信には既読すら付かず、存在しているはずのInstagramのアカウントは「ユーザーが見つかりません」の一点張り。
あ、ブロックされたんや。
自分が縁を切られたということを理解するまでに、さほど時間は掛からなかった。
意図的に人と縁が切れたのは、これで4度目だった。
私にできることと言えば、その理由を勝手に考える事くらいで、それまでの経験から、恐らくこうだろうな、という予想は浮かぶけれど、連絡を取る手段が無い以上確認のしようが無い。
いや、実のところ相手の家を訪ねれば連絡を取ることも不可能では無かったが、人と縁を切るというのは(少なくとも自分にとっては)踏ん切りのいることであるし、その決断に割って入るのは野暮なことのように感じた。それに、私の予想が正しければ、此方から彼方に干渉するようなことは避けた方が良いと思われた。
それからまた別の日に、むかし交流のあった人が自殺で既に亡くなっているということを共通の友達に知らされた。
「え、知らなかったの!?てっきり知ってると思ってた、、」
そういえばあの人元気かな、なんてその数日前に別の知人と話していたところだった。
あっけない。
人の命の儚さとか、そういう綺麗なことを説きたい訳ではなくて、人間関係の話ね。此方が永遠を望んでいても、永遠だと思っていても、姿を消す人は勝手に目の前から消えていく。これまでの人生でそんなこと分かっていたつもりで、でも実際にその場面に遭遇すると改めて実感する。
分かっていても痛いものは痛い。
人と縁を切ることと死別は、体感で言うと殆ど等しい。私は猫が好きだけど、居なくなる時は居なくなるって予告が欲しかったりする。それがただの我儘であることは百も承知で。
別に縁を切るなとも、自死するなとも言うつもりは毛頭無くて、寧ろ私は必要があれば意図的に人と距離を置く事があるし、死ぬ時は自殺にしようと考えている。だから、相手が私の目の前から姿を消そうとも、その選択は尊重して受け入れるし、別に相手が悪いとは1mmも思わない。
ただ、去られる側は、その人の存在無しでこれからの人生を過ごすことを覚悟しなければならないし、去る側はその準備ができるまで、とは言わずとも、その準備を少し手伝うことくらいはしてもいいのではと、去られる側と去る側の両方の立場からそう思わずにはいられない。
けれど、絶縁や自殺の当事者にそんな余裕があるかと言われれば、まぁ、そんなことはないよね。
だから、なるべくでよいのです。私の目の前から去る人は、可能であれば、前もって私にお知らせ下さい。準備がしたいのです、あなた無しで生きていくこれからの人生の。
私も、なるだけそうします。
どうか、縁を切った彼女が最初に浴びた風や、自死を選んだ彼が最後に浴びた風が、心地のよいものでありますように。