禅寺の円覚寺様でZenEating食べる瞑想をご提供させていただきました。
歴史あるお寺で、ZenEating食べる瞑想の講義とワークを提供して参りました。
鎌倉にある円覚寺様は、夏目漱石や鈴木大拙も禅修行をした、禅寺の中でも格調高いお寺です。
(時差投稿ですが、本会は緊急事態宣言前に開催したものです。)
なぜ円覚寺様でZenEatingを提供する機会がいただけたの?
管長(お寺の代表)の横田南嶺老師は、現代有数の禅の指導者でいらっしゃいます。(老師≒先生)
数々のご著書とご講演で支持が厚いので、新聞や本屋さんでお名前を見たことがある方もいるかもしれません。
今回、ZenEatingの食べる瞑想の講義とワークをご提供させていただくという身に余る機会をいただいた背景には、代表の南嶺老師のこんな思いがおありのようでした。
「禅寺の修行道場では、毎日お経を唱えてから食事を摂ります。お経を通して「食べ物への感謝や自分が食べるに値するか振り返って」と毎日唱えているものの、実際に有難さを感じているかと言うと疑問があります。形骸化していると言っても過言ではないでしょう。お寺は早食いの文化で、形式が先に立ってしまっています。教えの本当の意味を改めて感じながら食べることを教えていただきたい。修行僧と年齢も近いあなたが提供しているZenEatingを、彼らにも体験してもらいたいと思うのです。」
深い禅定を味わえたというご感想
ZenEatingの講義と体験を終えた後に、南嶺老師からは
「深い禅定(深い瞑想状態に入り、心が静寂な状態)に入ったような感覚になれました。」
と、言っていただきました。
私はこれまで1600名以上の一般の方にZenEatingを提供してきて「リラックスできた」と言う方も多いことを思い出しました。
本来修行の中で感じられるような深い「禅定」を、これまでの参加者の皆さんも食べながら体験していたのでは、と嬉しくなりました。
個別お話しする時間もたっぷりいただきました。
「Zenと名乗っているので、禅の視点からもっとこうしたら良いのでは?という点があればご指導ください」とお尋ねしたら、
「ないです。こちらが取り入れたいくらいです。」と言ってくださいました。
その上で、私がずっと指導者を探していた、マインドフルネスと禅についての質問もさせていただきました。
「マインドフルネス的な観察のアプローチと禅的な手放しのコンビネーション(詳しくはZenEatingスクール限定の記事)を意識して食べる瞑想の誘導をしています。私の「舌のどのあたりで甘味を感じますか?」というような観察を促す誘導は、禅としては邪道だったりするでしょうか?」と。
南嶺老師のお答えは
「そんなことないでしょう。禅の修行の目的は、悟って無になって何も感じなくなることではありません。むしろ感じていることの中に安らぎを得ていくことが大事です。禅は喜怒哀楽を否定しないですし、本当の静寂や安らぎは、喜びや悲しみが揺らいでいる中にこそあると考えます。おいしいと思ったり、どうかなと立ち止まったりその中にこそ動かないものを見ていくのが禅の立場ですから、あなたのZenEatingも大変に良いと思いました。」
というものでした。
恥ずかしながら、私はそれまで自分のプログラムを禅と呼んでいることに引け目を感じていたことに気が付きました。
お寺出身でもなく、修行したこともない立場で、「Zen」 Eatingと名乗っていることに不安があったんです。
でも、人格者の言葉に触れ魂が震え、「禅の修行道場に入ったことがなくても禅の魅力を伝えていい。私らしく進もう」と思えました。
今回これ以上ない褒め言葉をいただいた結果、小さなエゴを手放すことができたので、これから更に安心してZenEatingの活動に取り組む勇気が出ました。
僧侶の皆さまの体験後のご感想
修行中の僧侶の方々と指導者やご関係者と、全部で30名ほどがご参加でした。
終えた後の皆様のご感想です。
「飲み込んだ後の余韻を初めて感じて、充実した食事になった」
「お箸を一口ずつ置くと素材の味をよく感じられた」
「飲み込まずに舌の上に食べ物を乗せている時に、早く飲み込みたいけれど、舌の方は喜んでるという体験をした」
「食べる瞑想に参加する前は、食べる順番を聞こうと思って来たけれど、手順より味わう喜びの方が大事だと気が付けた」
「修行道場の食事は量が少なめだと感じていたけれど、本当に味わえばちょうど良い量だったと気づけた」
日本の禅の中核の方々への講義という機会にはじめはドキドキしましたが、私が一般人なりに、禅の教えにインスピレーションを得ながら国内外で伝えてきた『心を磨く食べ方』楽しんでいただけたようです。
得体の知れないものへの関心
南嶺老師とは直接お話しできる機会があるだけでも嬉しいのですが、ZenEatingの食べる瞑想をご体験いただけるなんて夢のようでした。
お話しが決まった時に、つい「生きててよかった」と呟いてしまいたほどです。
最近の関心事も聞いてみたら、
「得体の知れないことに興味がある」とおっしゃっていたので、もしZenEatingが得体の知れない存在に感じていただけたなら嬉しい限りです。
喜びと静寂
お仕事をさせていただく度に色んな成長を実感しますが、今回は「喜びと静寂の両方を持ちながら生きることでZenEatingも進化させていきたい」と、背筋がピンとなりました。
おいしさも喜怒哀楽も味わいながら静寂を見ていくために、真っすぐに澄んだ瞳でいたいです。
ZenEatingは精進して、ますます突き抜けていきたいと思います☺️
円覚寺様のブログにも登場
円覚寺横田管長ブログ記事「食べる瞑想」を一部抜粋させていただきます。
全文も面白いので、ぜひ読んでみてください!
もっとも禅寺の食作法は、元来心を磨くていねいな食べ方の筈なのですが、どうも形式だけに偏ってしまって、実際はただ早く食べているだけというのが現状でありました。
食の大切さについてのご講義のあとに、実際に僧堂の食事を用いて行いました。
麦ご飯とお味噌汁と、たくあん漬けだけの食事であります。
それを一口ずつ箸を置いて、西村先生の声かけに合わせて、実にゆっくりといただくのであります。(中略)
一口口に入れて、この食べ物がどういう経路を経てここに来たかについて思いを巡らします。
更にこのお米や食べ物が育った所を想像します。
私は、いつも食べている麦ご飯ですが、それを口に入れて噛まずにいると、その弾力、食感、そして麦が一杯になっている麦畑の景色、そこを吹く風などに思いを馳せました。
食事五観文で唱えているような内容なのですが、普段如何に疎かになっていたのか身に染みました。(中略)
一口一口ていねいにいただいていると、歩行禅を行っているのと同じように、自我意識が薄らいで、ただ食べる、噛む、味わうという行いのみになってゆくのを感じました。
ただ、噛む、味わう感覚のみが現れているという感じであります。
一歩一歩の歩みや、一息一息を味わうのと同じような感覚が得られたのでした。
まさに「食べる瞑想」というように、西村さんのガイダンスにしたがって、一口一口ていねいにいただくうちに、深い禅定に入ったような感じになりました。
身心ともに満たされたという感動に包まれたのでした。
ZenEatingを体験したい方は
現在ZenEatingの食べる瞑想をご体験いただくには、ZenEatingスクールにお申込みいただく方法がおすすめです。
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「ZenEatingって初めて聞いた」という方は、以下のリンクよろしければご覧ください。
プロフィール
Zen Eating代表 ももえ
禅に着想を得て、心の在り方を磨く食ワークを開発。Google米国本社やアクセンチュアからチームビルディング/健康増進プログラムとして採用された。
身体感覚を研ぎ澄ます食べ方を瞑想となぞらえ、10ヶ月で30ヵ国、1600名の心の安らぎに貢献。
幼少期のエジプト在住、30か国の旅行、山伏の祖父が住む山形が故郷、現在は東京在住と、文化のルツボを楽しんで生きる。
星野リゾートでのウェルネス担当の後、水道電気のない家に突撃ホームステイするなどの2年間のインド移住を経て、Cookpad勤務時にはデジタル市場で奮闘した。
ZenEatingの書籍執筆中、ドキュメンタリー制作が近年の夢。
食べる瞑想のやり方を一番詳しくまとめた記事はこちら。