『孤島のキルケ』(14)
「鏡が無い理由、ですか」
海豚の顔をした男は、大きく張り出した額から紫色の光を放射させながら目を閉じた。
「二瓶様の推測は、一点大きな過ちがありますな」
首をかしげる私に、海豚の顔をした男は紫色の光を私の額に向かって強く浴びせかけた。
「男たちに鏡を見させたくないのではなく、きるけえ自身が鏡を見たがらないのか」
紫色の光に、眉間に埋め込まれたちっぷが反応した。
私の言葉に、海豚の顔をした男は深くうなずいた。
「ふらんそわはとむに何と言っていた」
「キルケは光る物や反射する物を好まないとは言っていた。だが理由を聞いてもどうにも要領を得ない。あの口ぶりなら隠し事をしているとも思えないが引っ掛かる」
とむが円卓の下に積まれた木切れで爪を研ぎながら答えた。
「男に好かれたい女が鏡を見ないとは信じがたいが。服とて仕立ての良いものを毎日着ているではないか。仕立ての際には鏡の前で合わせるだろうにどう言う事だ」
私はそこまで言って、ふといしゅたるの言葉を思い出した。
『ここはそなたが死の世界と思えばそうなり、生の続きだと思えばそうなる世界に過ぎぬ』
つまりこれは海豚の顔をした男がかつて私に告げた、『あると思えばあり、ないと思えばない世界』と同義である。
これを前提に考えると――。
「きるけえの服は、きるけえが想像したそのままを体に纏わせている。質感、風合い、仕立て上がり、全て彼女の想像の中で作られた幻影を私たちは見させられている」
私は興奮して立ち上がった。
「鏡や光沢のある素材で自分の姿を見ることで、きるけえは自らの姿を客観視する事になる。そのせいできるけえが自分に対して思い描いた姿が崩れてしまう。その美しさも、その可憐さも、すべてきるけえが想像で作り出し自らにまとわせた幻影に過ぎぬ」
「じゃあよ、紡績棟の被服工場で作っている服は何なんだよ」
「この島の造物主としてのきるけえと、被造物としてのその他の差だ。被造物としての存在は、自らの想像では衣服をまとえないから工場で彼らに着せる服を作っている」
海豚の顔をした男の紫色の光に反応したちっぷが、私本来の脳の容量を超えて働いているようだった。
「キルケ自身が、この島の特質である『あると思えばあり、ないと思えばない』世界構造を象徴する存在であると仮定した場合」
海豚の顔をした男は、瞑目して私の言葉を聞いていた。
「第三者としての視点をもたらす鏡によって、キルケ自身が己を観測した際の意識状態によっては、この島が『ない』状態になる可能性がある」
「鏡がありゃあのくそったれ女とど腐れババアをやっつけられるのかよ。俺たちは人間に戻れるのかよ。それが問題だ。御託も言葉遊びも要らねえよ!」
とむが喧嘩腰で叫んだ。
「この島と、私たちごと消えて無くなる可能性もある」
「元の世界には戻れずにか」
とむはかすれた声でつぶやいた。
「仮に二瓶様の仮説が正しかった場合には、体も意識も空に還元されて行きますから死の苦しみはないでしょうが」
黙って私の言葉を聞いていた海豚の顔をした男が口を開いた。
「じゃあよ、フランソワは俺たちの邪魔をした訳じゃなかったって事か。それにあの猫の給仕さんも。奴ら一体どこまで知ってる」
「さて。法力を使えば彼らの思念を探る事は容易ですが、彼らは仲間です。拙僧は彼らの自由意思を何より尊重するつもりです。こちらから一方的に思念を読み取る事は致しますまい」
海豚の顔をした男の言葉に、私はほっとしつつもぞっとした。
ちっぷを埋め込まれた私の内心や下心もいくらでも読み取れるが、あえて読まないだけの話なのだ。
無想念であられよと都の賢者に口を酸っぱくして言われたが、ちっぷを入れる事が当たり前の世の中が来るなら、想念や雑念だらけではとても人前に立てそうにもない。
特に私のような凡夫は、ちっぷの埋め込みが当たり前となった世の中に適応は出来ないだろう。
「フランソワに口を割らせるしか無いな」
「無理強いは褒められたものではありませんぞ」
海豚の顔をした男にやんわりとたしなめられて引くとむではない。
「行ってくる」
寝室の扉の隙間を押し開けて、とむは廊下を忍び足で歩き去った。
「どう思う」
私の短い問いに、海豚の顔をした男も短く答えた。
「賭けですね」
明り取りの窓から見える月は、昨夜より更にふくよかになっていた。
『時間軸があいまいに揺らいで存在する中途半端な次元の主宰者』たるきるけえが統べるこの小島から、ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦に乗り込んだ所で次元を超える事など出来るのだろうか。
鏡を使えばきるけえの力が弱まる程度で済むなら、水鏡でも食堂の窓にかけられる覆い布を夜に不意にあけ放つ事でも試してみたいものではあるが。
明り取りの窓に私の横顔がぼんやりと映り、青白い月の光が私の背骨を氷のように貫いた。
いつの間にやら海豚の顔をした男はその姿を消し、私は月の光に見入っていた。
私はきるけえが寝台に忍んできたことすら、気が付いていなかった。
「月が綺麗ですね」
その一言に、私ははじめて寝室にきるけえがいることに気が付いた。
きるけえはそっと私の左側に立つと、微かにその身を私の肩に沿わせた。
私はきるけえを寝室からやんわりと退出させようとしたが、ふとある事を試したくなってしまった。
「今宵の月は一際冷たく見えますな」
私はきるけえの肩を抱き寄せ、その顔を明り取りの窓に映させた。
「懐かしい」
きるけえは、無心で月を見上げていた。
明り取りの窓を気にした風もない。
私は彼女の目を盗むように明り取りの窓を見た。
「今宵の月のごとくに輝く子安貝が欲しゅうございます」
何かの謎かけだろうか。
きるけえが夢見るようにつぶやいた。
「海に浮かぶ月ではなくて」
明り取りの窓にはきるけえは映っていないのに、私の肩口にはたしかにきるけえの重みと温かさがあった。
「ええ。ツバメが生んだ子安貝であれば、なおの事嬉しゅうございます」
きるけえが子供のような事を言うので、つい可笑しくなってしまった。
「童のような事を仰る。あなたはそれだけでは飽き足らぬのでしょうに」
「龍の首の球でもあれば、皆様を人に戻す事も出来るでしょうに」
きるけえは飽きず月を見上げていた。
その横顔がそのまま月に溶けて行きそうで、私は思わずきるけえの実在を確かめるようにその唇を自ら食んだ。
「旦那さま――」
呆然としたような、それでいて月の光にほのかな赤みがさしたように頬を染め、きるけえは私の胸へとしがみついた。
そこからの事は覚えていない。
私が目を覚ました時にはきるけえの姿は無かった。
ただ彼女の残した薄手の上掛けだけが枕元に転がっていた。
私は自分の体を見、恐る恐る明り取りの窓に自らの顔を映した。
人間の私が、広い額にはっきりとした眉目の私がそこにはあった。
記憶がない間の私は自分をある程度制御できたのだろうかと、私は恐怖した。
一体私はきるけえに何をした――。
あれだけ忠告されておきながら、私はちょっとした好奇心でまんまと彼女に自ら手を伸ばしてしまった。
とむにも海豚の顔をした男にも合わせる顔がない。
だが、一つ大きな収穫もあった。
きるけえは窓に姿が映らない――。
これがどのような意味を持つのか私にはまだ分からないが、海豚の顔をした男にでも相談すれば何か良い意見がもらえそうだ。
『今宵の月のごとくに輝く子安貝が欲しゅうございます』
『海に浮かぶ月ではなくて』
海に浮かぶ月など取れる訳もないのだが、私は名残の熱を帯びた体を冷まそうと忍び足で館を抜け出した。
私が初めてこの島で夜を過ごした時には、痩せさらばえた月が闇に消える所だった。
その月が再び闇から生じ育ち行く間に、私はどれだけの年数を過ごしていることになるのだろうか。
この浜辺がすべての始まりだった。
月の光は人の心を鎮静化させるのか、忘我に導くのか、それともその特質は表裏一体なのか――。
私は海面に浮かぶ月を捉えようと素足になって暗い海に身を晒し、海月のように服を着たまま仰向けに浮かんで月を眺めた。
「おくつろぎの所失礼するぜ」
浜辺からの聞きなれた声で、私の夢想は断ち切られた。
「ついに吐かせたぞ。完落ちってやつだ」
私は背泳ぎをしたまま浜辺に近づいた。
ざぶざぶとくるぶしを波が洗う。
海中から夜気に当たると寒さが堪えた。
「寒い」
「またあのくそったれ女に温めてもらうか」
「見てたのか」
「いや。見ちゃねえが。何となく空気が、な」
うんざりとしてため息をつくと、私は震えながら流木に腰を掛けた。
「風邪ひくぜ。坊さんを呼んでくるわ」
「その必要はございません」
「おわっ」
とむが進めかけた前足を引っ込めるのと同時に、目の前に大きな焚火が現れた。
「あんた本当に何でも出来るな」
とむが大きな口を開けてあくびをした。
「そうなりたいのは山々ですが、未だ修行の身。ままならぬ事ばかりにございます」
海豚の顔をした男は、焚火の中に手を突っ込んで九字を切った。
良くも火傷をしないものだと呆れ半分に見ていると、『破!』と叫んで月に手を上げた。
「応急措置にはございますが、これである程度は結界が張れる事でしょう。月の力に呑まれたようですが、大事に至らず何よりでした」
当然とむが察知したからには、海豚の顔をした男が私がきるけえに手を伸ばした事ぐらい分らぬはずもない。
私はきまりが悪くなって思わずうつむいた。
「フランソワの言うには、単純に鏡を見たがらないんだとよ。とにかく鏡や光って反射するものは苦手らしい。何でも、動揺して心が不安定になっちまうらしいんだ。だから顔や姿が映るものを極力置かないように、館の管理をしている奴らにも伝えてるんだとさ」
ふむ、と海豚の顔をした男がうなずいた。
「きるけえが自分の姿を鏡で見た所で、きるけえや島自体が消えてしまう訳ではないい。何でも、金具や食堂の大窓やらに映った顔を見ると、発作を起こすらしい。『私は醜いから』『私は愚かだから』とかぶつくさ言いながら泣き出したり震えだしたり、いきなり叫んだりするんだとさ」
「自らの容姿を異様に嘆く年頃の娘は、さほど珍しくもないですからな」
納得しかける海豚の顔をした男を横目に見ながら、私は首をひねった。
なぜならきるけえは――。
とむがふらんそわから聞いたと言う説明に、私は納得出来なかった。
「明り取りの窓にはきるけえは映らなかった」
「角度の問題じゃないのか」
とむが疑わしそうに目を眇める。
「いや、何度か確認してみたが映っていない」
「じゃフランソワはまだ何か隠しているって事なのか」
とむががるると喉を鳴らして体勢を低くする。
「寝室の明り取りの窓だけが特殊な素材だとか」
私も無い知恵を絞って考えてはみるのだが、食堂の大窓には姿が映るのに明り取りの窓には姿が映らないのも、道理のいかない話ではある。
尤も、因果律が働かないこの島での出来事を理屈で読み解こうとすること自体に、無理があるのかもしれないが。
「ふらんそわの言っている事に嘘がないと仮定するならば、月かもしれない」
「月?」
とむが怪訝そうに声を上げた。
「満月の夜は特に注意しろと私に言ったのを覚えていないのか」
私はとむに尋ねた。
「ああ、確かに言ったが。それときるけえの姿が明り取りの窓に映らないのと何の関係が」
「きるけえは月に見入っていたのだ。満月の夜に注意しろと言ったのは、満月の夜に姿を変えられる男が多いからではないのか」
「全員ではないが、俺が見る限り満月に向かう数日間が多いな」
とむがあくびをしながら答えた。
「以前、呼吸と拍動を同期させられると術に掛かりやすいと言っていただろう。同じ要領できるけえは月と同期できるのではないか」
私の言葉に、海豚の顔をした男があぐらを組んで空中に浮いたまま光りだした。
「月と同期すれば、このように体全体が月の色に光り始めるものです。キルケも同じように光りましたか」
あまりに何気なく聞いてくるので、私は凄いものを見せられている事にしばし気が付かなかった。
ぽかんとしながら、いや光ってはいなかったと言うのが精一杯だった。
「重みや体温は」
「それは感じたのだが、窓には何も」
ふむと腕組みをすると、海豚の顔をした男はあぐらを解いて火に両手をかざした。
「息遣いは」
随分生々しい事を聞きやがると思いつつ、私ははたと気が付いた。
「しがみつかれた所で記憶が途切れているのは、きるけえに記憶を操作されたからだろうか」
「五感どれかのかすかな記憶も消えておいでですか」
私は無言でうなずいた。
「失礼」
海豚の顔をした男は一言私に断って、ちっぷの入った眉間の部分をぐっと左指で押し込みながら、紫色の光を放った。
「ああ、そう言う事か」
海豚の顔をした男は何度もうなずいた。
「二瓶様、あなた月へ行ったのです」
「月ですと?」
「ええ。キルケは完全に月と同期する術を身に着けておるようです。明り取りの窓に姿が映らなかったのは、キルケが月と同期していたから。重みや温かさを感じたのは、二瓶様が知覚していたキルケは、その場に存在するキルケよりもごくわずか前に存在したキルケの残像だからです」
私が月に行ったとはどういう事だ――。
「私がきるけえとの記憶を持たない間、きるけえと私は呼吸や拍動だけでなくその全身を同期させていたが故に、私もきるけえを通じて月と同期していた。月と同期していたから私は『私』の記憶をその間有していない。こういう理屈か」
「そのようです」
私はふと、きるけえの言葉を思い出した。
『今宵の月のごとくに輝く子安貝が欲しゅうございます』
『ツバメが生んだ子安貝であれば、なおの事嬉しゅうございます』
『龍の首の球でもあれば、皆様を人に戻す事も出来るでしょうに』
そして月と同期して私と共に月に行っていた――。
「竹取の翁の物語では、羽衣を着せられた事で、姫は人間の情を忘れたはず」
私の言葉を海豚の顔をした男が引き継いだ。
「燕が生んだ子安貝も龍の首の球も、求婚者を退ける為の方便でしかなかった。衛士達に帝をもってしても月の貴人には叶わず、姫は月に帰ってしまったのでしたな」
火のそばで腹を規則正しく上下させているとむを横目に、私の頭は忙しなく働き始めた。
「きるけえが月とそこまで同期できるなら、いしゅたるが明星の大神であるのと同様に、本来は月の力を持っていたのでは」
「女性は月になぞらえらえる事も多くありますが、だからと言ってそれほど月と同期できる者は巫女の中にもおりますまい」
「きるけえはイシュタル神殿の巫女だった話はご存じで」
「ええ。あらかたは虚空蔵経由で読み解きましたから」
水神様から聞いたわけではないらしいので、私と若干の認識のずれはあるかもしれないと思いながら私はうなずいた。
「私たちが本当に必要なのは、羽衣かもしれない」
「はあっ? 潜水艦をあそこまで完成させたってのに、また違うものが必要だって言うのかよ。切りがねえ」
寝ていたようで話を聞いていたらしいとむが不服の声を上げた。
「羽衣とは物の例えだ。きるけえに掛けられた呪いを解く神器がいる」
「それが分かりゃ苦労しない」
とむが背を大きくそらして伸びをした。
「仮に私の見立てが正しければ、神器とは月の光を宿す鏡、子安貝に竜が象徴する玉」
「そして剣。玉・鏡と併せて三種の神器となりますな」
海豚の顔をした男が両手を月に向けた。
「自分の顔が醜いと嘆くのは呪いのせいだ。それで鏡を見たがらないと言うふらんそわの説明も嘘ではないと思う。だが窓や鏡に映る月の光に反応して、力の制御が出来なくなることも恐れているのではないか」
私はきるけえと一緒に月に行くぐらいにきるけえと同化したから、獣にならずに済んだだけだろうと思った。
「イシュタルに掛けられた呪いの性質からすれば、剣に擬えられる男根と、母性の象徴としての月を表すキルケの胎が真の愛情によって強く結ばれる事。そして愛の結晶としての子が生まれる事。これによってキルケは真の安寧と救済を得ると考えられますな」
海豚の顔をした男は、月を受けて全身を薄黄色に光らせた。
「ニヘイさんに剣役は無理だろうな」
「無理に決まってる。きるけえに対して真の愛情など湧くはずもない。第一きるけえは自分の事だって嫌いなんだろ。自分の事が嫌いな奴が人には好かれようなんて、そりゃ虫の良すぎる話だ。それも含めての呪いなんだから仕方が無いと言われればそれまでだが」
「今の所ふらんそわ以外に剣役は考えもつかないよな。でも今じゃあいつは獣だろ。無理筋だな」
とむは鋭い牙を月に向けてまたあくびをした。
「なあ、ニヘイさんよ。今夜フランソワと一回肚を割って男同士の話をしねえか」
「出来るのか。きるけえと一緒にいつも寝ているのだろう」
「たまにゃ良いだろうよ。どうせくっついて寝ているだけなんだから」
「そりゃふらんそわ次第だが、きるけえに内容を聞かれたくない」
とむの提案に私は首をひねった。
「ではハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機で話をしましょうか」
海豚の顔をした男の提案に、とむは不服そうに尻尾を揺らした。
「潜水艦の中にまで入れて良いのか。フランソワはキルケに近すぎる」
とむはふらんそわをどこか警戒しているようだった。
「聞かれたくない話をするには最適の場所でしょうから。それに拙僧は彼の実直さと、島全体のありとあらゆる存在へ注ぐ愛を信頼しているのです」
「だったらあのくそったれ女の事も、人間のうちに愛して欲しかったね」
吐き捨てるようにとむが言うと、フランソワを呼んでくると言い残して館へと向かった。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
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