『孤島のキルケ』(21)【完】
船が大波にさらわれたのだと思ったが間違いだったらしい。
「何も心配は要らぬ。ワシはこう見えてイシュタルに力を奪われる前は立派な神だったのだぞ。ちょっと酒が好きすぎたのが祟ったがな」
鷹の背に乗った私は水神と共に、タコつぼ湾のタコつぼ渦が巨大な目のように海を移動しながら全てを吸い込んでいくのを呆然と見つめていた。
鷹の背に乗った私はしろばち山の頂上に送り届けられた。
陸地らしい陸地はしろばち山の頂上のみだった。
館も工場も跡形もなくなり、ふらんそわも紋次郎も綺堂もいなかった。
「いしゅたるはどうしたのです」
「イシュタルの父親がお灸を据えたよ。あの娘は死すべき者の前では自分を全能の神と言ってはばからなかったが、天空を司るいと高き神の娘でしかないからな」
水神は穏やかな声で答えた。
「ワシがうっかりしていたものだからイシュタルに地上の権能が殆ど移ってしまったが、最終的に神々の力を与えるのも奪うのも、いと高き神の御業であるからね。その意味ではイシュタルとて全能ではなかったのだ」
「彼女の所業は我々死すべき者から見れば神のようにも悪鬼のようにも見えましたが、彼女が神である事自体は真実なのですか」
私は羊のような巻き毛の髭を蓄えた水神のひざ元に止まって尋ねた。
「左様。彼女は神ぞ。荒ぶる自然そのものぞ。大地が激しく揺れ山が火を噴き水に風が死すべき者を飲み込み吹き散らしても、死すべき者はその営みを止める事は出来ぬ」
私は黙って水神の言葉を聞いた。
「死すべき者は荒ぶる神と向き合う事で、神から与えられた力の一分を試行錯誤を繰り返しながら死すべき者の天地に顕すのだ。その積み重ねを死すべき者が世代を超えて引き継ぐ営みそのものが、人の歩みであり文明と呼ばれるのだよ」
「水に飲まれた者たちは皆人に戻れるのですか。元の世界に戻れるのですか」
「本人にとって最も良き所に行っておる。半獣人や獣人から元の姿には戻るがね」
「では私も今からでもあの渦に飲み込まれれば」
飛び立とうとする私を水神は優しく掌で包んだ。
「トミー・ビスにも言われただろう。主は早合点がすぎるぞ。主がきつつきになり、今こうして全てを見ている事に意味があるのだ」
「どのような意味があるのでしょう」
「それを外に尋ねては過つぞ。主自身の内に問うておれば、いずれ答えも見つかるじゃろう」
私は水神の掌の上で、一つ目のような海を見つめた。
下弦の月が新月へとやせ細る間、私は鷹と水神と共に海をただ見つめていた。
「そろそろ良いじゃろ」
三日月の夜が明けかかった頃水神は私を肩に乗せ、しろばち山の頂上からふもとへと歩き始めた。
水神のために道を開くがごとく水は引いていき、海岸にまで押し寄せていたタコつぼ渦も跡形もなくなった。
水が引いた跡には館の痕跡の石と木の根がわずかに残るのみで、全ては幻であったのだとさえ思えてきた。
「さて、誰が来るかな」
水神は心なしか弾んだ声で、すっかり穏やかになった波の向こう側を見つめていた。
「おいおい、まだリバプールに戻れねえのかよ全く勘弁してくれよ」
黒とも茶色ともつかぬ髪を短く切ったトムは、頭巾のついただぼだぼの白い上着にくるぶしまでのからし色の細い袴のような服を身に着けて、ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦の残骸につかまっていた。
「よう、あんたは結局きつつきになったまま戻れなかったんだな」
「まあな」
私の声は人間の声になっていた。
「声だけ人間で体がきつつきってんじゃどうにも出来ねえ」
とむは水神をちらりと見ると、誰だこいつと失礼な問いを私に投げかけた。
「拙僧はこちらに来てしまいましたか。まだ修行が足らぬと言う事でしょうな」
海豚の顔をした男は、草船に流されていた時のような若く秀麗な顔立ちをした青年僧の姿になっていた。
「あんたもこっち組かい。お互い苦労するぜ、何一つ残っちゃいねえ」
「いやいや、何一つ心配はいりませんよ。あると思えばある世界なのですから」
「あんたの言うゼンモンドウって奴は相変わらず分けが分らんな」
それで構わんと言い残すと、海豚の顔をした男は私に向かって問いを立てた。
「さて、拙僧は自分に何という名前を付けるべきか」
「いや、知らんな」
「ではそれで。拙僧の名はイヤ・シランナ。改めてよろしくお付き合いのほどを」
私は目の前の男が冗談を言っているのかと思ったが、本人は至って本気のようでイヤ・シランナと三回唱えると奇声を発して空中に浮かんた。
「なあ、俺たちこれからどうなっちまうんだろう」
とむは言葉とは裏腹に、まっさらな島で起こるこれからの事を楽しみにしているようだった。
「いや、知らんな」
「何か御用で」
空中で浮いたままの海豚の顔をした男改めイヤ・シランナが問うてきたので、今後返答に『いや、知らんな』という言葉は使うまいと私は思った。
「なあ、とむが神猫に成りすまして紋次郎達を焚きつけて、島に寄越したんだろ」
私はとむの肩に飛び乗って軽く髪をつまんだ。
「俺は勝手に神社のマスコット猫にされただけだ。神主は俺の言葉が分かるってんで色々と話してやったら面白がりやがってな」
とむは髪をむしられると思ったのか、私を肩口からしっしと追い払った。
「あの神主の野郎、飲み友達に話を思いっきり膨らませてしゃべりまくってよ。週刊誌で話題になったのを良いことに、神猫金運アゲアゲ財布やら神猫ラブいちゃペンダントに神猫ご長寿枕カバーなんぞをせっせと作っては通信販売で売りさばいてウハウハよ」
「つうしんはんばいって何だ?」
私はきつつきとなった今となっても、『売りさばく』と言う単語には敏感だった。
「あんたが商売していた時代にゃ無かった物の売り方さ。神主の野郎、俺のおかげでハーレーだのポルシェだの乗ってやがるくせに、俺にはべちょべちょのキャットフードしかくれねえのな。ケチだぜあいつは」
はーれーだのぽるしぇだのきゃっとふーどだの、また私の分からない言葉が増えた。
「それじゃ紋次郎達を島に送り込んだのは、とむの計画じゃないって事か」
「あいつら本当にたどり着けたのか。漁協のおっさんの所に、元気な兄ちゃん達が化け物狩りをしてやるんだってやってきてな。それでおっさんが面白がって、一体百万円でどうだなんて言ってた所までは俺も知ってるがまさかなあ」
とむは呆れたと言わんばかりに顔をしかめた。
「そりゃそうと神主の野郎、俺のお告げだなんて言いながら勝手に作り話しやがって参ったぜ。タコつぼ渦の中心にゃ水色のドレスを着た色っぺえお姉さんがいるだの、そいつに十本の腕があって、その手が狛犬やケルベロスみたいな犬の顔になっててぐるぐる回って渦を作ってるだの言ってよう。それで雑誌に載って通信販売でまた金儲け。大した錬金術だぜ全く」
「けるべろすって何だ」
「めちゃくちゃ怖い地獄の犬。きつつきなんか一瞬で食われちまわあ」
「おお嫌だ」
私はとむの肩に飛び移った。
「さあ、夜が明けるぞ。昇る朝日を良く見ておれ」
水神の一言に、私は水平線をじっと見つめた。
水平線から立ち上る太陽に溶ける月の中に、きるけえの姿はあった。
黒真珠の瞳はもはや悲しみを湛えることはなく、登りくる太陽を幸せそうに見守りながら明るさを増す空に溶けていく。
黄金色のように東の空を染めた太陽は眩しく直視する事は出来なかった。
だが、ふらんそわの毛並みのように輝いて波打った黄金色の髪の青年が、消えゆく月を愛おし気に抱く様子が頭に浮かんだ。
「うおっ、何だ何だ」
トムが指さした先の海には大きな二つの岩がどこからともなく投げ込まれた。
「夫婦岩ですな」
海豚の顔をした男改めイヤ・シランナは至って平静な顔で告げ、二つの岩に手を合わせた。
「きるけえとふらんそわは、月と太陽で夫婦になったって事なのか」
「死すべき者としてこの地上に降りる事を選び、気の遠くなるような長い歩みを経て元の姿に戻ったと言うべきやもしれませんな」
月と太陽の化身が本来のきるけえとふらんそわであるならば、同じ所で寄り添っていられないのだから寂しいはずだと私は思った。
「で、俺たち三人、いや男二人ときつつき一羽で何をすりゃ良いんだ」
「とりあえず母子南島に渡ってヨモギを分けてもらって、あの岩の上にでもおいて置けば良いんじゃないのか」
私はあてずっぽうで答えてみた。
脳みそがきつつきの大きさなのだ、難しい事を考えろと言われても困る。
「またヨモギかよ。神社でさんざん焚かれたがあの匂い実は苦手でよ」
とむは顔をぐしゃっと歪めた。
「では早速それから始めてみましょうか」
海豚の顔をした男改めイヤ・シランナが異国の言葉を唱えてきえええっと叫ぶと、笹の葉のような形の小舟が海上に現れた。
「あんた相変わらず凄いな」
「この程度の船を出す位なら誰でも出来るようになりますよ」
「ならば母子南島のヨモギをここに出すほうが早いだろ」
私のもっともな質問に、海豚の顔をした男改めイヤ・シランナはかぶりを振った。
「手ずから苦労をして取りに行くことに意味があるのです。さあ、乗りましょう。法力が効いている間に」
「法力ってどのぐらい持つんだ」
「その時々によって違います」
「それじゃ途中で海に放り出されるかもしれねえって事だろ。危なっかしくて乗れねえよ」
「さあ、乗った乗った。何とかなるだろ」
翼を持ったきつつきで助かったと思いながら、私は渋るとむの尻をくちばしでつつきながらに小舟に乗せた。
「いい旅をな」
水神の声を背に、私たちは大海原に漕ぎ出した。
ふらんそわときるけえがここにいないのが少しだけ物足りなかった。
それでも、彼らは私たちの旅路に昼も夜も寄り添ってくれるのだと思い直して、輝く太陽に照らされた夫婦岩を見つめた。
※※※
私が目を覚ました時には民宿の広間の電気は落とされていた。
いつの間にか掛けられた布団の中で、私は酷く長い明晰夢を思い起こしていた。
あの大旦那どうも見覚えがあると思ったら水神か――。
それにしても随分壮大かつ辻褄が合わない、夢らしい夢だった。
取材ノートを材料にして味や触感までリアルな明晰夢を見るとは、仕事中毒も行きつく所まで行きついたと乾いた笑いが込み上げてきた。
腕時計は午前五時丁度を指していた。
民宿の朝食は鯵の開きに柔らかめの白飯。
名物だという魚のすり身の団子汁に雉焼きと、クコの実と干しわかめの粥が吸い物のように着いてきた。
「こちらの粥は海鷹四方木神社でお供えしているものと全く同じ作り方なのですよ」
大旦那が人の好さそうな笑顔で配膳をしながら説明していた。
明晰夢どころではない驚きを感じながら、私は朝食の写真を撮った。
朝八時には母子南港を起点に、数え年で十七歳になる青年が海鷹四方木神社の夫婦岩を目指して遠泳する。
この『きるけえ詣で』では特に臨場感のある良い写真を撮りたいと、私は早めに会場入りした。
昔は母子南島の男達は全員数え年で十七歳になると遠泳をしたそうだが、時代が変わり強制参加ではなくなったそうだ。
六人の参加者に取材をしていると、聞き覚えのある声がしてきた。
「よう、あんた取材の人か」
トムは明晰夢で見た背格好とほとんど変わらなかった。
白いパーカーにカーキ色のカーゴパンツを履いて、スニーカーソックスに三本線の入ったスニーカーを履いている。
「ええ。タウンマイタウン誌の取材で参りました」
「合同会社ピクス・ラティウムの二瓶十兵衛さん。若いのに爺さんみたいな名前だ」
私が名刺を渡すと、トムはぞんざいにカーゴパンツのポケットに突っ込んだ。
実にトムらしいと私は思った。
「ちょうど良いや。俺は毎年遠泳の伴走で船を出してんだ。こいつらの泳いでる所の写真を取材がてら撮っちゃくれないか。俺の船に乗れば夫婦岩も一番良い位置から撮れるぜ」
「それは有難いです。ぜひお願いします」
「任せとけ。じゃこっちに来な」
トムに連れられて母子南港のスタート地点に行くと、県の無形文化財である海鷹四方木太鼓が六人の青年を激励して、勇壮な暴れ太鼓を奏でていた。
「あちらの女性達も、地元の有志の方なのですか」
隣の特設ステージでは、『はこにゃんず』と大書された揃いのハッピを着た年若い女性達がリハーサルをしているのが見えた。
「一応はご当地アイドルって事で三年前から売り出してる。とは言っても役場や漁協に農協の女性職員も数合わせで入ってるから、アイドルってくくりで本当に良いのかね」
トムが言うには、ふるさと納税の返礼品として『はこにゃんず』のCDと島焼酎の詰め合わせも用意しているそうだ。
残念と言うか当然と言うか、あまり引き合いは来ないらしい。
「あんた、記者さんなら『はこにゃんず』の紹介もしてやってくれよ。リーダーは世界民謡大全で優勝したスゴ腕だ。ほら、もうすぐ彼女のパートだ、見てろよ」
ステージ上で黄色いリボンのついたポニーテールの女性が歌いだした途端、私の全身が総毛立った。
マイクオフでも天高く通る声。
盛りのひまわりの如き笑顔。
程よく日に焼けた肌、少し筋肉質の健脚に骨太な体つき。
ああ、ようやく会えた――。
気が付けば私の目から、とめどなく涙があふれていた。
「『はこにゃんず』のステージであんなに泣いた奴は初めて見た。リハーサルであんなに泣くなら本番はどうなっちまうんだか」
トムに呆れられながらタオルで涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭くと、時刻は七時四十分を指していた。
「これから安全祈願を一緒に受けて乗船って流れだ。皆も準備しな。もう八時二十分前だ」
六人と私、トムにもう一艘の船の主はぞろぞろと海鷹四方木神社の本殿へ出向いた。
古式にのっとり祝詞に頭を垂れ、神主から顔や足など数か所にヨモギの汁を手ずから塗ってもらうことになっているそうだ。
本殿で神妙な顔をしていると、神主が深い紫色の衣に身を包んでしずしずと会場に現れた。
「イヤ・シランナじゃないか」
思わずつぶやいた私にトムが驚いた顔をした。
「あんたメタル好きなのか。あの神主はイヤ・シランナって芸名のメタルヴォーカルでスピードメタル界隈じゃ神扱いってのは本当なんだな」
私はかみ合っていそうでいない明晰夢と現実のニアミスに吹き出しそうになった。
明晰夢では高僧、現実では神主というのもニアミスだろう。
独特の強い芳香を持つヨモギの汁を塗りこめられた私たちは、いよいよあの夫婦岩に向かう。
私の見た光景は夢ではないと、生き別れになったかつての愛妻に再会した私は確信した。
私は水神である民宿の大旦那に海豚の顔をした男改めイヤ・シランナである神主に見送られて、トムと連れだって夫婦岩を目指すボートに向かった。
月と太陽に戻ったキルケとフランソワに、かつての妻との結婚祈願でもしようか。
あるいは、安産祈願でもしてみたらどうだろう――。
私は柄にもなく、乙女の如く心躍らせながらライフジャケットに身を通した。
(完)
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
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