チョートン・ハウスのガーデン / エドワード・オースティン・ナイト【ジェイン・オースティンが好き】
イギリス、ジョージ王朝時代の小説家、ジェーン・オースティン。
彼女の小説は、「分別と多感」「高慢と偏見」「エマ」「マンスフィールド・パーク」「ノーサンガー・アビー」「説得」の6作品が出版され、現在まで読み継がれています。
ジェインは、ハンプシャー州スティーブントンの牧師館で育ちました。兄弟、姉との仲が良く、彼らと生涯を通して交流を持ち続けました。今回は、その中で異例の経歴、大富豪のジェントルマン(紳士)になった兄エドワードについてお話ししたいと思います。
前半は、エドワードの生い立ち。
後半ではチョートン・ハウスについて。「Pride and Prejudice / 高慢と偏見」の小道もご紹介します!
生い立ち
エドワード・オースティン・ナイトは、ジェイン・オースティンの兄で、オースティン家の3男。15歳の時に父方の親戚にあたるナイト家の後継者となるため養子になりました。ナイト家は、ケント州とハンプシャー州に領地を持つ大地主。
ジェインの父ジョージ・オースティンは、裕福な叔父フランシス・オースティンからの支援で牧師の職を得ます。そして血縁関係のあるトマス・ナイトの領地であるハンプシャー州スティーブントン村の教会牧師の職に就任すると、ナイト家から牧師館とその周りの土地(の借地権?)を分け与えられたので、食料を自給自足する事が出来ました。
トマス・ナイトが亡くなると、息子のトマス・ナイトⅡがナイト家の領地を相続しました。
トマス・ナイトⅡとエドワードの出会いは、結婚したばかりのナイト夫婦が、ハンプシャー州の領地をめぐるハネムーン(ウェディングツアー)の途中でスティーブントンへ立ち寄った時でした。その時に(ジェインは5歳だった)オースティン家のエドワードを気に入り、その後のハネムーンにエドワードは同行。当時のハネムーンは今とは違い大勢の人々を従えて旅する形式で、エドワードが一緒に行ったとしても、ハネムーンに大きな影響を与えるようなことはありませんでした。その数年後、ナイト家の若夫婦は子供に恵まれず、後継者としてエドワードが抜擢されました。
オースティン家にとって、3男エドワードがナイト家に養子へ行くことは幸運なことであり、それによって、のちにジェインはエドワードの領地となったチョートン村の家で暮らし、執筆活動に集中できる環境を得ることになりました。
オースティン家の兄弟は大学へ進学しましたが、エドワードだけは家庭教師(父のオースティン氏から?)様々なことを学び、18歳の時にグランドツアーへ【1786‐1790年の間】出かけました。グランドツアーは、紳士のたしなみとして必要不可欠なもので、良家の男子はヨーロッパ各地を旅して見聞を広めます。エドワードが滞在したのは、ドレスデンの宮廷。その後イタリアのローマに渡りました。
エドワードが、ナイト夫妻のハネムーン以降、たびたびケント州のゴッドマーシャム・パークへ滞在する話が出たとき、父ジョージが心配したのは、エドワードに今まで通りのラテン語のレッスンを出来ないことでした。「ご親戚のナイト家のためにもエドワードを養子にさせてあげましょう。」と説得したのは、母親のカサンドラでした。教育に理解のあったオースティン家では、女子のカサンドラやジェインも子供の頃に寄宿舎の学校へ通わせ(当時は、大人数の子供の世話が難しいから女子を寄宿舎に送るという考え方もあった)、ジェインには持ち運びできるライティング・テーブルをプレゼントしました。
エドワードは、13歳の時にナイト夫妻と出会い、15歳で養子となりましたが、実際は18歳からのグランドツアーに行くまではスティーブントンで暮らしていました。
結婚
1791年 グランドツアーから帰ってきた後、ナイト家の近所に住む准男爵サー・ブルック・ブリッジズの娘、エリザベスと結婚。彼女は、美しいと評判のある良家の子女でした。二人は、ブリッジズ家の屋敷
「グッドネストーン・パーク/Goodnestone Park」
から歩いて行ける距離にあるブリッジズ家の持ち家「ローリング・ハウス/Rowling House」で暮らし始めました。
(グッドネストーンは、正しくはガンストン/Gunstoneと発音されるので、ここからはガンストンと表記します。)
1796年の9月にローリング・ハウスに滞在したジェインからのカサンドラへの手紙には、ローリング・ハウスからガンストンへ歩いて行った様子が記されています。
‘’私達は、土曜日は舞踏会でした。ガンストンで食事をして、夜には二つのカントリーダンスとブランジェリーを踊りました。私が最初に踊ったのは、エドワード・ブリッジズです。私達は夕食をとり、二つの傘の下で家に歩いて帰りました。‘’
ガンストン・パークは、現在は結婚式場になっています。⬇
ナイト家のゴッドマーシャム・パークに移り住む
エドワードの養父トマス・ナイトⅡ が1794年に亡くなると、その妻キャサリン・ナイトはゴッドマーシャム・パークを相続しますが、3年後にはゴッドマーシャム・パークを含む領地の管理をエドワードに明け渡し、自身には年間2000ポンドの収入だけを残し、亡くなるまでカンタベリーの家で暮らしました。キャサリン・ナイト夫人は、ジェーンとカサンドラの事も気にかけていて、彼女達はカンタベリーの家に滞在しています。
親切な譲渡案にエドワードは反対しましたが、キャサリン・ナイト夫人の希望通りにケント州、ハンプシャー州の領地は、エドワードが管理することになりました。ちなみに、キャサリン・ナイト夫人の遺書により1812年にエドワードは名字をナイトに変更しました。(この時からエドワードの名前は、エドワード・ナイトとなった。)
エドワードがとうとうオースティンからナイトになった事を、ジェインは友人マーサ・ロイドへ宛てた手紙に
‘’K(Knight)の文字を上手に書けるようにならないとね。‘’
と、書いています。
1798年の8月
ジェインは、エドワードが主人となったゴッドマーシャム・パークへ、両親と姉カサンドラと滞在しました。アッパー・ミドル・クラスの人々と交流するだけでなく、読書、姪や甥と過ごす時間も楽しみました。
広大な屋敷と庭園で過ごす時間を利用して、「エリナーとマリアン」を「分別と多感」に改作し、「ノーサンガー・アビー」の原型を作り上げたのではないか?とも言われている。*¹
ここでの滞在からインスピレーションを得たのが「マンスフィールド・パーク」とも言われています。ジェインは、匿名で作品を出版していますが、彼女の作品中に出てくる登場人物や地名などはジェインの実生活に関係していることがあり、彼女が作者であるということは、次第に周りの人々に伝わっていたことが、ジェインが兄フランクに送った手紙の中に記されています。
例えば、「マンスフィールド・パーク」の主人公の名前は、ファニー。
物語の中に出てくる海軍の船の名前を、海軍大佐であった兄フランクが乗っていた船の名前にする。
「エマ」の相手役は、ミスター・ナイトリー。
など、ジェインの周りにいる人なら、作者が誰であるのか想像できたかもしれません。
(この他に、ジェインがゴッドマーシャム・パークに滞在したのは、1805年の8月。1813年9月から11月。)
*¹ P44 新井潤美 「ジェイン・オースティンの手紙」(岩波文庫)
チョートン・ハウス
エドワードは、ケント州のゴッドマーシャム・パークと、ハンプシャー州のチョートン・ハウスの大邸宅を所有していましたが、主にケント州にあるゴッドマーシャム・パークで過ごしていました。ジェインがサウサンプトンからチョートン村に引っ越して来た1809年当時、チョートン・ハウスはミドルトン・ファミリーに貸し出されていました。ジェインの作品「説得」にも出てくるように、当時は領地を持たないアッパー・ミドル・クラスの人達は大邸宅を借りて住んでいました。
エドワードに頼まれて、ジェインは度々チョートン・ハウスを訪れて、家の様子を見に行き、ミドルトン家と交流していました。それからしばらくすると、チョートン・ハウスはナイト家が時折訪れるためのホリデーハウスとなります。チョートン村に住むオースティン家の女性達と会うために、自宅として気軽に使えるようにしたかったのかもしれません。エドワードの一番長いチョートン・ハウスでの滞在は、ゴッドマーシャム・パークの壁を塗り替える時に、鉛を含む塗料を避けるため、ナイト一家で5週間過ごした時でした。
エドワード・ナイトⅡ
エドワードの長男(エドワード・ナイトⅡ)は、ナイト家を相続すると、幼少期から馴染みのあったチョートン・ハウスで過ごすのを好むようになり、屋敷は次第にアットホームな場所として使われるようになりました。これには別の理由もあって、彼は結婚するときに相手の父親から大反対され、駆け落ち同然で結婚。その後、正式に結婚が認められました。ケント州に住む義理父を避けるため、チョートン・ハウスで暮らすようになったのだそうです。(歴史家 Jane Hurstさん情報)
ウォールド・ガーデンの建設に着手
チョートン・ハウスの敷地内にあるウォールド・ガーデンは、エドワード・オースティン・ナイトによって造園されました。
1813年 ジェーンが兄のフランクに送った手紙によると、
エドワードお兄様は、新しいガーデンを造る話をしています。今のガーデンは、パピロン牧師の家(チョートン・ハウスの前方にある道の向かい)の近くにあり、立地が良くない。屋敷の後ろ側にある芝生が広がる敷地の一番上に新しく庭を造ろうと思っているようです。
庭造りの計画はジェインも聞いていましたが、実際に造園されたのは、ジェインが亡くなった(1817年)翌年の1818年~1822年の間で、果物の木や食べ物が育てられるキッチンガーデンとなりました。エドワードが建設した壁のほとんどが、現在まで残されています。
モンタギュー・ナイトによる造園
ウォールド・ガーデンは、食材を育てるためのキッチンガーデンとして受け継がれてきましたが、モンタギュー・ナイト(エドワード・オースティン・ナイトの孫で、1879年から1914年に屋敷を所有)によって、観賞用の花を楽しむためのガーデンに造り替えられました。
1905年頃には、庭の前方部分に仕切りとなる壁と鉄のゲートを設置。この部分にはバラと桑の木が植えられています。壁際に幾つかベンチが置いてあるので、のんびりと寛ぐことができます。
現在のチョートン・ハウスは、ソイル・アソシエーションに加盟しており、エドワード・ナイトがいた頃の農法で野菜や果物は育てられ、オーガニック栽培されています。食材は、屋敷内のティールームで提供したり、チャリティー活動の一環としてローカルで販売されています。
高慢と偏見のバラが咲く小道へ
ウォールド・ガーデンの一番奥中央あたりには、バラの小道があります。このバラの品種は、
「Pride and Prejudice / 高慢と偏見」
2024年ジェイン・オースティン・リージェンジー・ウィークの時にやってくると、バラが満開。散ったバラが地面に広がっている様子も、風情があり素敵。
この2週間前ぐらいにも来たのですが、その時は入り口付近にあるバラは満開だったのに、このバラは蕾のままでした。他のバラよりも咲く時期が少し遅いようです。
チョートン・ハウスの今
チョートン・ハウスは、1551年 から代々ナイト家により受け継がれてきました。1992年 リチャード・ナイトによって売却され、アメリカ人実業家のサンドラ・リーナーとレオナルド・ボサックによって125年のリース契約で購入され、彼らの手によって古き良き姿に甦りました。現在はガーデン、屋敷、屋敷内のライブラリーが一般公開されています。
ライブラリーは、初期(1600年から1830年)女性小説家の研究施設 The Centre for the Study of Early Women's Writing, 1600–1830. で、予約すれば資料の閲覧などに利用できます。
【まとめ】
オースティン家とナイト家のつながりは深い。
ジェインが生まれ育ったスティーブントンは、ナイト家の領地でした。ジェインの父は、ナイト家の当主トマス・ナイトと親戚だった事から、ハンプシャー州スティーブントン村の牧師館で暮らす事になった。
その後、ナイト家の資産を相続したトマス・ナイトⅡは、子供に恵まれなかったため、オースティン家の3男エドワードが、ナイト家の後継者として養子になります。エドワードは、良家の子女エリザベス・ブリッジズと結婚して、しばらくしてから、ナイト家の領地を相続しました。
エドワードの領地には、ケント州のゴッドマーシャム・パークとハンプシャー州のチョートン・ハウス2つの屋敷がありましたが、主に滞在していたのはゴッドマーシャム・パークでした。オースティン家の女性達の生活を支えていたジョージ・オースティンが亡くなった後、ジェイン達は兄弟からの支援を受けて、バースからサウサンプトンに引っ越し、兄フランクの家で暮らしていました。その頃に、エドワードから彼の領地にある家に住む事を提案され、その中から選んだのがチョートン村にあるコテージでした。この引越しにより、ジェインは落ち着いて作品に取り組めるようになり、ほとんど書き上げていた「分別と多感」「高慢と偏見」を完成させて、とうとう出版し小説家としてデビューを果たします。「マンスフィールド・パーク」「エマ」「説得」を執筆し、「マンスフィールド・パーク」と「エマ」はチョートンで暮らしている時に出版。「ノーサンガー・アビー」と「説得」は、ジェーンの死後に兄ヘンリーによって作者ジェーン・オースティンとして出版されました。
チョートン・ハウスは、チョートンで暮らし始めたオースティン家の女性達とナイト家が交流した場所。ジェインのお気に入りだったという二階の窓から庭を眺めると、ジェインが目にしていたであろう美しい景色が広がります。
エドワードが造園したウォールド・ガーデンには、「Pride and Prejudice 高慢と偏見」という品種のバラが植えられた小道があります。チョートン・ハウスにはナイト家のみならず、ジェイン・オースティンの面影があちこちに残されています。
ジェイン・オースティンのゆかりの地のひとつ、チョートン・ハウス。
ぜひ、訪れてみてください!
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参考資料